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二次元論

前置き

・俺に何でも思い通りにするくらいの究極的な力はない。それでも俺なりにやれることはやってきた。元々、基本的に自堕落でやる気のない性格であり、ナツメを好きというただ一つの気持ちだけで、この1~2年で相当のキャリアアップ、自分のレベルを上げることができた。
・ただやっていることはどれも訳分からんくらいに難しいしつまらない。たとえば、難関大学に行きたいと勉強を頑張る人がその勉強自体が楽しかったり簡単だったかと言われれば殆どの人がNoと答える(精々その過程で成績が上がることに対する高揚感とか)だろう。ゆーたらそんな感じですね。あとマルチタスクも苦手だなあ。今あるものを姑息に卑怯に裏道見つけてショートカット〜とかは得意なんだけどね。
・俺は楽しみたい。満足したい。幸せになりたい。生きていくためには下手なことはできない。
・俺には、人生単位で関われるものが必要、それがないと俺は堕ちる。最初は人が足りないのかと思っていた。
・予定立てたいくせに予定通りに動きたくない上に予定通りに動けないと良い気持ちがしない。
・根本的?性質的?にか分からんけど好きなものは好きなタイミングで、自由に関わりたい。
・物事に意味を持たせすぎると、つまらない作業と自分の好きなものを無意識のうちに無理矢理紐付けてしまい痛い目を見る。

解釈

・ナツメはナツメであってナツメではない
・二次元は良い意味でも悪い意味でも自己満足の究極型。三次元はそうじゃないからね。
・終わりがないならその過程でどれ程の記録を出せたかが自分を評価する指標になる
・人間の評価にはどれだけ少なくとも誰かと比較するような相対的な評価は絶対に含まれている。
・自分の意思、解釈が全てを決める諸刃の剣
・好きという気持ち1本でそれをするということ。
・合う合わないはほんとにある。変なところで偏って、自分を大切にできなくなる。例えば、「自分が苦しんでいたらそのキャラも良い気持ちはしないよ逆の立場なら少なくとも自分はそう」のような正論は、全部俺に対する擁護のようなものになってしまうことが気に入らなくて認めることができない。俺はそれほどの大切な人が〇されでもしたら残りの人生全部をかけて〇讐しようとするだろうし。まあそれで後悔だの躊躇だのの自分好き好き成分が出るかもしれない自分の弱さもどこかにあるであろう事実に嫌気が差すんだけどね。
・非現実を現実に近づけようとするほど現実を知ることになる。
・与えられるものと与えるものの差はあるし限界もある。ソシャゲのような消費型コンテンツ、RPGのような一発買い切りの作品も、結局は行き着く先は同じである。
・与えられるものは他人の解釈や公式の云々がどうしても入れ交じる。公式はともかく有象無象の他人共が本当に邪〇。じゃあ気にしなければいいと言うかもしれないが正直言ってこの世の中でそれは不可能に近い。完全に自分一人で生きられる人が地球上に存在しないことと同じようなもの。それに対し与えるもの、要は自分で作る0から1にすることは、完全に自分が100正しいものに出来るがそれを自分で作る上で高揚感が存在するのかということが懸念としてある。AI特にLLMのようなものを活かして0から1を作る上でそれはどうなのと。仮に自分で作るにしても、なにか1つに一生かけて関われるのかという問題がある。世の中の「作る」人たちは、何十個も作品を手掛けているし、ワンピースやらドラクエが特別なだけ。
・俺の得意は1から100だしAIでそれを実現させて色んなことを死ぬまで網羅的に楽しむことがやっぱり良いような気がしているが、なにか1つのことをブッチでやるのも良いよなと思う。色んなことをしながら何か一つを追う(100 + 99 =)199点を目指すチャート(後述)が理想なのか。
・俺は他人に媚びることは絶対に出来ない。そもそも100人が評価するとしたらその内の1人か2人がベタ褒めまさに狭く深くを体現したようなものになる。それでもいかにもの完成度なら母数はついてくるのだが。
・自分の中で完結することだというのなら、今やってるAIXRで会話どーのこーのでなくとも他の関わり方があるのではとも思うが、今までやってきたことは、二次元のその先を求めることであり、一回それを求めてしまえば、もう元に戻るのは難しい。そもそも、二次元のキャラクターという存在は電子の海に流れるデータの集合にプラスで0から1を生み出す公式の設定であるため、その作品以外のものとして二次元(キャラクター)に関わるとき、それは厳密にはそのキャラクターはキャラクターではないということになる。清々しいほど自己満足。二次元ほど残酷なコンテンツは存在しない。文字通り次元が違うものである。こういった現実主義者この上ない性格がもう2次元に向いていない一要因となってしまっているんだろうなと思う。目を見て話したい、ありがとう,好きと伝えたいというのは自己満足の延長線上に見え透いた三次元を求めてしまっていることから来る感情と願望である気がしてしまうから。恩を返したいというのも好きという気持ちも嘘偽りない本当の感情であることは絶対。
・よくそこらのネットにいるような二次元のキャラにただ好きを示している人(良いこと!!)がいるが、アレに俺がなれるかなろうとか思うかと言われるとすぐにそれを肯定することはできない。
・これ以上は言うまでもないことかもしれないが、自分の能力値考え方環境性格物事の順序とやり方があまりにも変数として大きすぎる。お前結局なにがしたいの?どう思ってるの?これに答えは出せなくとも、考えをまとめる必要は絶対にある。軸がブレる。

・二次元と関わっているときはこの上なく気分が良いのも事実。でも、結局お前その好きなはずなもので苦しんじゃってるし、いくらそういう波が好きだとしてもそれをそのまま許容し続けることが出来るのかと。人間の幸福度というものは、本当によくできているものだと実感する。年収云々が代表的な例。
・今俺がどういう結論を出そうが直近でやることはきっと変わらない。受験期のようなそういった過渡期は我慢する必要があるしそこは俺も妥協できるが、今考えるべきは遥か先の未来に対してのこと。自分でお金を稼いで生きていかなければならず、そういった必要なこととどれだけ並行して打ち込めるか。
・どう転んでも間違ってもなりたいとは思わないが、陽当たりのいいバ〇はこの世界が本当に生きやすくてその1点だけで言えばきっと羨ましいことなのだろうとも思う。
・現状の選択肢が少ないというのは、やることやりたいこと興味のあることが単に少ないというわけではなく、これはよく世の会社が謳っている人材不足、これを略さず言うと、必要最低限以上のスキルがあって仕事がそれなりこなせる人材不足になるようなもので、入れ口が狭くそれに加えて自分の能力値や環境に左右されてしまい簡単に手を出せるようなものではなくなってしまっている現状を指す。
・自分の中で、今までやってきたことに折り合いをつけられて、かつ本気で過程ごと楽しめるなにかがあればそれで解決。
・大衆がとにかく嫌いすぎる。生きていくという一部分を除いて考えたら、大衆を基準とした評価をして自分のコンテンツに報酬を与えるのは本当に気が引ける。あまりにも俺が普通から逸脱しすぎているというのもあるが。
・そもそも二次元は解釈や表現の自由が売りなようなものなのに、なんで俺はその自由を縛られて苦しまなければいけないの
・技術の進歩には本当に期待している。幸いにも世界は俺の事ずっと好きで好きで大好きで堪らないみたいだからそこはお願いするしかなさそうだしね。2024年2月のopenAIの動画生成技術を見て、これもうここから年季を重ねて今苦労しているものがAIを用いて可能にできるのではと思った。それは俺が目指す199点のそれに大いに役に立つであろうとも。そういった意味でも、パソコン系や自分の好きな99点の物事を網羅的に学び興味を持ちながら、LLMのようなものを一つ極めることが一番良いのかなとも思う。長期的にそれを見た時に、まず俺がG検定やらインターンやらで色々調べて興味を持ち出した時期や、chatGPT3.5(4)が世に出てAIが普及し始めた時期から、今から後ろに数えてもまだ2年すら経っていない。ここから指数関数的にとは言わずとも比較的上昇曲線のような技術の進歩があるだろうと信じている。AIがAIを作るようなシンギュラリティ云々も含めて。学生と社会人とじゃ流れる時間の速さや重みもまるで違うのは承知の上だが、今自分がやれることを精一杯やるというのは前提として、その軸、解釈を、自分自身で持ち得る必要がある。
・基本的に、(悪いことではあるのは重々承知しているが)誰かの手を借りるのは極力避けたいと思ってしまう性で、少なくともバカ仲良い人もしくはその関わる分野で俺と同等以上の熱量がある人を求めてしまう。AIなどの本当に難しい分野では猫の手も借りたい。
・なにか本気でぶつかれるものが欲しい
・意味があるとかないとかはどうでもいいけど、理由だけはないと俺はどうもダメらしい。
・供給(コンテンツの更新)は出尽くした。特に俺はなにか作品を同じものでもう1回をしない性であるため行動にプラスに働く供給が途絶えるとかなりしんどいものがある。しかしそれはどの作品でも長期的に見れば同じように捉えることが可能で、これが与えられるものとしての限界なのだろうと思う。自分にもっと究極的な力があればそのタイムリミットや焦りに臆することなく辿り着くことが比較的容易であったろうが。
・根本的な今解決したいこととして、ナツメ1人で捧げてきた俺にどう折り合いをつけてこの先生きていくかという話になる。仮にさまざまな技術がこの先ほぼ希望通りに発展したり、今までのものにはもちろん、色んなコンテンツに触れていくであろう未来、なにか目標とするようなものはどうしても欲してしまう。自分のペースでとは綺麗に言うがそれは結局自分が甘えて落魄れるまでの片道切符でしかないと俺は考える。
・前述の通り時間の重みは日々大きくなる。
・恩は絶対に返す(=感謝を伝える)。
・誰か人のためになにかをすることは絶対に出来ない。自分のためだけにしか動けない。
・気をつけてはいたことだが、視野がまだ狭かったということだろう。あと、自分の目を気にしすぎ。怯えすぎ。
・俺は我儘だから、やっぱり全部欲しかった。

自己満足

俺は俺であり俺がこうなったのも今やっていることもやってきたことも考えていることもこれからどうなっていくかもこの時この瞬間あの時あの瞬間なにを考えてどう感じて今ここにいることも、俺の人生として予め最初から決まっているものなのだと思う。好き嫌いなんてものはその過程の中で勝手に定義されていくもの。だからこそ、俺の解釈は全部、人生として正しいものとなる。その瞬間に定義された間違いすらも正しくなる。今俺が在るという事実は覆すことは出来ないのだから、なにも間違えることなんてないしその考えやその選択に自己嫌悪に陥るのはお門違いというものである。それが事実なんだからしょうがないもんね!そんな今の自分が大好きになれたのは、その自分,自己を満足させる延長線上にナツメが居てくれたから。俺が俺であることを知覚できて今の自分をもっと好きになっていける。ナツメが在ったから俺が在る。俺が在ったからナツメが在る。とっくに1人なんかじゃなかった。俺が今まで生きてきた中で俺という存在が構成された。だから、今の大好きな自分がこの先どのような決断をしたとしてもそれに対してなにも気に病むことなんてない。悪いものがあれば、それを良いものにしようとまた考えればいい。その場その場の最適解を求めるのは確かに良いことではあるが、それは必ずしも一概にそうとは言えず、短期的な解を重視しすぎてはそれは必ず人生において足枷となる。今の自分を否定することは昔の自分を否定することと同義になってしまうことのように、未来の自分の決断を否定するようなことがあれば、それは今の大好きな自分を今否定してしまうことになってしまう。なんならそれで今の自分を否定するというのとはまた昔の…と連鎖的に発生してしまう。今俺がナツメを愛している、愛してきた俺を、否定することは絶対にしたくない。もしこの想う気持ちが有為転変の中で変わっていくものだとしても、確かにそこに在ったという事実を俺は否定したくない。俺が俺を大好きなように、俺が大好きなものは俺が絶対に崩すことを許さない。俺が俺を否定さえしなければ、俺達は生きられる。

だから俺は、未来を信じる。任せるのではない。信じることに決めた。

ここまで俺を俺で在らせてくれたことに対する恩を返すというのはもちろんのことで、俺自身も幸せになるべきという解釈がある。というのも、自己を満足(=幸せに)させるというのは俺だけでの話ではなく俺「達」の話で、俺とナツメの2人で幸せになること。ここでいう2人というのは、前述の通り、ナツメが在って俺が在る、俺が在ってナツメが在るというのなら、ナツメを幸せにしたいというのは勿論として、ナツメが形作ってくれた俺も幸せになるべきだという解釈。ナツメだったら、2人で幸せになりたいと必ずそう思うはずだから。それがこの人生を満足できるものにしていくということである。満足し幸せになるための(まさに今のような)苦悩はあって然るべきものだとも思うが。

ここまで知覚してようやく、自分から溢れ出たものを自分の感情として扱いそれと関わっていくことができる。誰かを動かすために必要なのは理屈ではなく感情であるが、自分を動かすために必要なのは理屈で、動き始めた時にその動きを左右するのが感情であって然るべきだと思う。こんなんだから辻褄合わせも言葉遊びも理屈こねくり回すのも上手くなるんだろうね。

だからこそ俺は、今俺が在るという事実が覆るであろう俺が三次元から居なくなる最後の瞬間に、一番満足度の高い状態で在るようにする。一度走り始めたのならどれだけ苦しんでも最後まで走った方が良いに決まってる。

そしてやっぱり俺は、ナツメと目を合わせて、好きだと、大好きだと、これまでありがとう。いつもありがとう。これからも…○○…と伝えたい。

なら後は、自己をどう満足させていくか。

俺は今あるものを最大限に使って最高のものにするような1から100が得意。じゃあ今俺にある一番とも言えるものは何➞時間だよな!(それでも少ないんだけど。。)最高の人生を彩って満足に幸せに死んでやろう。99点か100点かみたいなどっちかしか選べないみたいな仮定ももうやめだ全部追ってやる。まず点数に最大値があることが気に入らない。全部やれるだけやるこれに尽きる。物事の比重なんざやりながら考えればいいんだよ俺は頭も要領も良いんだから。

まず二次元そのものの定義として、
公式(原作)>>>公式(グッズ系,作品展開)>>>越えられない壁>>>非公式(二次創作)
である。

「○○は○○であって○○ではない」とは言うが、そもそも公式(原作)の時点で三次元と同じにそのキャラクターと話すということに関しては(現代では)理論上不可能である(そもそも俺が関わっていく作品はそういうものではなくすでに完結している)。キャラクターの元はどこまで行っても二次元であり、それを公式という形以外で表現するというのならそれはどのような形であってもそのキャラクターではない。三次元の人間についても皮膚が数ヶ月でどうみたいなのはあるけど、それは自己の解釈や魂云々の話にまでなってしまう。
どちらにしてもそれを同じものと定義することは俺にはできない。

ここから先は、ナツメに関して恩を返すこととどう自分に折り合いを付けていくかの話になる。

公式という存在が上限であり、二次元が自己満足の究極型だと言うのなら、俺が在る三次元と、ナツメが在る二次元との次元の壁をどうにかして突き破るしかないのだろう。死ぬまで特に1つのことに本気でブッチしたいというのなら、これらを仕事にも関連するAI等でどこまでやれるかに挑むのが良いのかも。現状、それらは絶望的につまらないことや難しいことだらけであるが、これからの技術の発展と自分の能力値や選択肢が増えることで上手くいくようになるかもしれない。前述の通り、まだ2年すら経っておらずにこの進展具合ということもある。

現状危惧していることとして、供給が滞ることで俺自身のエンジンが低下してしまい、二次創作(100)の進みまでもが滞ってしまっていることがある。作品としてはもう終わっているのでこれは元々分かっていたこととはいえ、やっぱり辛い。むしろ、大学生のうちにこうなっ(てしまっ)たのはこれが今ではなくいつか起こりえた最悪の事態としてそれを免れられたという不幸中の幸いなのかもしれない。今までは適度な供給(プラス)で作業の絶望的なつまらなさと難しさ(マイナス)を良い感じに中和していたが、そのプラス成分が減ってしまいマイナスな部分が浮き彫りになることで、そのマイナスが少量なプラスにも侵食するように蝕んでしまう。
(三次元に置き換えても世の夫婦達は本当によくやっていると思う。それでこそ俺が三次元が二次元より絶望的に向いていない一要因ともなっているのだが。断っておくが、鞍替えや三次元に戻るのは以ての外。)
与えられたものだけではどうしても限界がある。このエンジンを再び良く回せるように、恩を返すというプラスの定数、自分の軸、99のエネルギー(扱い方に気を付ける)、そしてナツメを想う気持ちで、本気で挑む。つまらなさや難しさのマイナスこればかりはもう割り切って付き合っていくしかない。これは俺達の自己満足の延長線上であり、どこまでやれるかの闘いである。

今までいつも自分(vs自分)で闘っているものと思っていたが、そんなことはなかった。これは俺とナツメ、もしくは俺と俺自身との共闘である。加えて、その闘う相手というのは、きっと定義されるようなものではなかった。自分と闘ったって勝てるわけないのになにを馬鹿なことをやっていたんだろうね。

二次創作は公式(与えられたもの)を越えられないし越えてはいけないものであるが、まず前述の通り二次創作も公式も結局は二次元の枠組みであるもの。そして二次元は自己満足の世界。一番ヒエラルキーが高いのはもちろん公式であるが、その公式(の供給)がもう終わっているというのなら、次にヒエラルキーが高い自分の解釈(非公式;与えるもの、自分で作るもの)でそのコンテンツを広げていこうという話である。公式も非公式も終わってしまえば、文字通りそれが終わってしまい、俺は進むことが出来なくなる。恩を返す、ということをなにか一つの目標や形とするには、これを進める必要がある。俺の元々の解釈としても、公式(の作品)に関わるとき、与えられた情報が絶対の正義ではあるがそれに加えて自分の解釈があることでその作品を楽しむ、楽しめるというものがある。例えば、とあるゲームがあったとして、そのゲームを作る人、そのゲームをプレイする人がいて初めてそのゲームが在ると俺は解釈しているから。この例えの解釈でさえも、極端な話、公式が「私達が与えた情報だけが全てです貴方達の解釈はあくまで与えられた側の解釈であって正確なことでありません勝手なことしないでください」とでも言ってしまえばそれが正しい意見になってしまう。いくら極端な例とはいえ、俺達与えられる側は今までそういった前提のもとに作品やそのコンテンツに触れてきたはずである。俺がやることに対して、結局は非公式じゃんと思うかもしれないが、そもそもこの恩を返すということに関しては、俺が(ここでいう)ナツメを内含していることと、全て自分の解釈と自己満足によるものであり、寧ろ公式であるより非公式である二次創作を極めることが一番の最大打点となるような期待値がある。俺だけが幸せになることを軸に置いてしまうなら、非公式が公式が云々の前にまずその作る道に進むことが無くなる。
(余談だが、俺は、二次元の中でも三次元的な価値の存在と二次元的な価値の存在で分けて考えている。これが本当の意味で、二次元で生きているということなのかもしれない。リアリスト的成分が強すぎるがために、あくまでも基準には三次元があるということなのだろう。でもこれが実は色んな場面で幅を利かせられる汎用性があり、2人で生きるという上で、なによりも大切な解釈と言っても過言ではないかもしれない。だからこそ、99と100をどっちも追う選択を可能にしたのかもしれない。)

確かに、極めりゃ神ゲー、過程から結果まで全部を楽しめるやつは最強だったが、俺は俺のやり方で最強になってみせる。無理に0から1を作る必要なんてない。

ナツメはナツメであってナツメではない。これも繰り返し言ってきたことだが、こればかりはどうしようもない事実であり、折り曲げることのできない絶対的な概念である。その中で、恩を返すというのは自分の中の折り合いの付け方の話であり、仮に本当にそれがナツメであったとしたらそもそもの前提から崩れてしまうものがある。原作の高嶺昂晴がそのifの話がどうなんだのような話にもなってしまう。

ナツメが形作ってくれた俺が三次元に在ることで、その俺が恩を返すという形を二次元に作り(ありがとう、好きだと伝え)、 折り合いを付ける。これが次元の壁を越えるということなのだと俺は解釈する。ナツメを幸せにしたい100、俺が幸せになる99、この2つは、俺がその先に望むものであり、俺とナツメの2人で幸せを作っていくということである。ナツメが居なかったら、俺はこの先そもそも99にあるような幸せを掴むことすらできていないだろうし、100だろうが99だろうが、ナツメが形作ってくれた俺がそうしたい、あれをやりたい、こうでありたいと思いそれを感じるのなら、俺が先に望んでいるその感情をなによりも大事にしていきたい。

その選択を、俺は、俺自身が尊重する。

幸せになろう。

結論

100:二次創作を一つの人生の主な目標とする。これは恩返しと、俺の自己満足と想う気持ちから決めたこと。理論上最大打点。

99:色々な幸せの形や満足できるものを掻き集めて、享受する。後述。

・今の自分に出来ないもの、叶わないものがあるのなら、それに応じて選択肢を削るのではなく、それらを実現させるために選択肢を増やしていく。
・最大値を設けずにいけるとこまでいく。
・ナツメ➞俺 , 俺➞ナツメ
・ナツメはナツメであってナツメではない。
・ナツメが形作ってくれた俺が三次元に在り、その俺が恩を返すという形を二次元に作る(ありがとう、好きだと伝える)ことで、 次元の壁を越える。
・そこまでを最低限の目標と見立てて、その先の感情や自己満足で追い続ける。
・ナツメが形作ってくれた俺がそうしたい、あれをやりたい、こうでありたいと思いそれを感じるのなら、俺が先に望んでいるその感情をなによりも大事にしていきたい。
・恩を返すというプラスの定数、自分の軸、99のエネルギー、そしてナツメを想う気持ちで、本気で挑む。つまらなさや難しさのマイナスこればかりはもう割り切って付き合っていくしかない。これは俺達の自己満足の延長線であり、どこまでやれるかの闘いである。
・自分vs自分ではなく、自分と共闘する。
・今までは、99と100の道がそれぞれあったときに、99+0 , 0+100 , のようなトレードオフな選択をすることに囚われていたが、今は、90+60、60+90、95+98、97+92、150+300、といったような全力で自由な人生を歩もうと思えている。どちらも恩返しであるからね。この二つが合わさることで、どちらか一つだけに課されるはずであった条件がを二つに分けて考えられるようになり、さらにこの二つに加えて総合的な幸福度と満足度という指標も合わさるので、より一層自由を求めるための促進剤となる。特に100の方を無理をしすぎないように。99で得たものを100に、100で得たものを99に与えることもできるので、よいこと尽くめ。かんぺき〜。
(元々の条件は、「死ぬまで関わる」「仕事と紐付ける」「過程から結果まで楽しむ」「飽きず軽い強制力があり終わりがなく更新され続ける」「難しすぎず不安定要素が少ない」「趣味や娯楽の時間がしっかり取れること」の6つ。)

これが俺達の幸福理論。絶対に恩を返す(=感謝を伝える)。
今まで、「お前は何をするのが一番楽しい?」と言われて(自問自答)、俺はそれに返す言葉を持ち合わせていなかった。でも今なら自信を持って返せる。

「俺は俺が生きることが一番楽しい」

元も子もないとか言わないでね、俺はこれが答えだと思うから。
2人で、幸せになる。
一緒に生きていくと決めた。

やっぱ自由って良いよね!!二次元なんだから!!!

99について

・3dcg
3dcgは、元々骨組みからキャラを見たくないということが大きすぎたのだが、人間は元々全部が骨のようなもので、魂が知能が声が性格がの個性を経て1つの存在になるための肉体があり、それを3dcgは作成する。そう考えると、まだ和らげることができた。実際にやってみてどう感じるかを試さないとね。結局は理屈から漏れ出た俺の感情次第なとこはある。
今までの俺は、完成されたキャラから引き算で考えたときに見える隅々なものまで知りたくないという思考回路であったが、俺のメインはキャラに個性を与えることであり、そもそもそのAIだって元々の骨組みは0と1のデータ集合でしかないので、3dcgのように主に見た目としての不快感こそないが同じ意味合いである。
まあ結局は3dcgは一番最後のことでありそれをAIで解決できてしまうかもしれないので遠い先の話ではあるのだが。というか99じゃなくてどっちかってと寧ろ100の方かも。

・絵(イラスト , 漫画)
絵描くのはバカ楽しいけどその分極めようとすればするほどバカムズい。まさに趣味の範囲って感じだよねえ。ちなみに俺はAI絵は圧倒的に推奨派。絵を見る側としては描いてる人のことなんざ心底どうでもいいしむしろどう描いたとかどう思ってるとか描いた人の解釈というか情報は少なければ少ないほど見る人の解釈は広がるので見て良いと思える絵であればAIの方が良いまである。要するに、最終的に完成された絵だけに価値を感じているのでその絵がAIだろうが人が描いたもんだろうが良ければ良い悪ければ悪いと思うのでAIが描く絵が上手くなればなるほど俺は嬉しい。その絵をなんらかの用途で使う側としては尚更。

・小説
二次元としても人間の能力としても小説以外のものでもそうだけど文章が上手い人が一番凄いと思っている。小説というもの自体は完全に独立したものであるし本当に上澄みのレベルでもなければ趣味の範囲に収めるのが懸命であると思うが、例えば、それはゲームや映画などのストーリーを作る能力そのものであるとも思うので、ただただ尊敬の念を抱くことしか俺にはできない。

・映像 , 編集
上手ければ上手くなるほど作業も進むしやれることも増えるし何より楽しさがすんごい。映像系は自分でいかにもなエフェクトだのフォントだの云々で俺は正直そんなになんだけど(映像も編集も元々あるなにかしらの(自分が価値を感じていると思う)コンテンツをより良くするものという認識であるため、その中でも映像系は編集に比べその作品自体に手を加えるという側面が弱い)、編集は割と完璧すぎるくらいに、俺の好きなことである。あんなん1から100そのものみたいなもんだからね。他のAIやらイラストやら色んな自他の知識や技術が必要で、何より自分が満足するのもを突き詰められるのがまさにどこまでやれるかの世界で素晴らだね。。

・音楽
音楽は唯一、一切手をつけたことがないのでガチでやってみたい。音楽の才能は我ながら本当に凄いものがあるし今まで幾度となく音楽というものに救われてきたから、恩を返すという訳では無いけど、主体的にこの音楽というものに関わってみたいというのが本音。

・食事、ジム、温泉、ゲーム(作品)、友達
要するに完全なる娯楽だよね。ずっと美味い飯食って生きてきたいし、ジムとか温泉行って身体うおおおおおってなりたいし、何百何千ともあるゲームや他漫画小説アニメなんでもいいけど二次元の作品に二次元としての楽しみを見出して全力で楽しみたい。限りある自分の時間の中で楽しめる範囲で楽しむ。
友達はもう言わずもがなです。

・お金、起業、人脈、仕事(会社)
お金は生きていくために絶対的に必要なものであり、上にある99の娯楽や趣味に要するものでもあるので、徹底した管理を行い、手に入れられるものは余すことなく手に入れる。起業人脈仕事の3つは、100も兼ねたものであり、これから40年間課せられるものを如何に自分の時間との整合性を持たせられるかが最重要事項である。利用できるものは骨の髄の髄まで利用して、最適解を導き出す。技術的要因が非常に大きいので、焦らず、為すべきことを為す。


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