HAMTの「在宅鍼灸しゃべり場」に参加してみて

こんにちは。

先日私は、HAMTさん主催の「在宅鍼灸しゃべり場」に参加させていただきました。

ちなみに私は都内在住で鍼灸師として働いています。

参加までの経緯をまとめてみます。

・Twitterでたまたま「在宅鍼灸師育成プロジェクト(以外、在宅鍼灸さん)」さんをみつけたのでフォローしてみた。

・後日、在宅鍼灸さんがスペースをやっていた。

・そのスペースを聞いていたら参加リクエストがあったので、思い切って参加してみた。

・スペース参加の翌日、HAMT主催の「キャリアデザイン」への参加依頼があった。

・「キャリアデザイン」に参加してみたら、いいコミュニティだなぁ。と感じた。また、自分自身を振り返るいい機会になった。

・その後「在宅鍼灸しゃべり場」ってのもあることを知り参加してみようと思い2月16日の「在宅鍼灸しゃべり場」へ前日申込して滑り込みで参加となった。

そうゆう訳で、参加させていただいた感想を書いてみたいと思います。



■感想
「キャリアデザイン」に参加した時にも感じましたが、「新たな自分」に気づくことができます。

自分自身の考えを述べる機会をしっかり作ってくれる場ですし、また、参加者全員がその意見を尊重し傾聴してくれます。

ひとりの鍼灸師としての悩み相談、在宅鍼灸師の孤独感の共有、介護現場との関わり方など様々なお話しができる中で、私自身は「新たな自分」に気づくことができました。

政治と鍼灸の話になった時は、政治に関心を持って生きていたんだと気づきましたし、介護現場の話しをした時は、終末期の患者に関わる事が鍼灸師として好きかもなぁとも思いました。

見えていない自身を見ることができたので「新たな自分」に気づくことができると表現してみました。

ここまで私自身の話しか書いていませんが、2時間のしゃべり場の時間で私が話したのはトータル10分程度だと思います。あとは他の参加者の話を聞いている時間。
それでも満足感や充実感はすごくありましたし、「新たな自分」にも気づけ、他の参加者の価値観も知ることができる素敵なコミュニティでした。



■気になったワード
何か感想以外にも書いた方がいいと思ったので、気になったワードを一つ思い出してみようと思います。

・「沈黙」をポジティブに
→「間」を大切にする。という話を私が出したところから話が進み出たワードです。

「間」を大切にする話から、施術中におきる「沈黙」や患者対応時の「平常心」と話が進んでいきました。

施術者は施術中の「間」や「沈黙」に不安がある。「間」を埋めるために話出し、施術よりも話が中心になってしまう。
「沈黙」があると施術がちゃんと行えているか不安になってしまう。などなど。その不安は理解できました。

その中で
「沈黙だとネガティブな印象なのでそれぞれがポジティブなワードに置き換える努力をしていいかもね。」となり、そう考えたら「沈黙」への不安も減ってくるのかもと。
いい考え方だなあ。と思うと同時に、悩みや不安をポジティブに変える。その変える人が誰か1人でなく皆んなで話をしている中で答えをみつけていく。
それがこのコミュニティの良いところに感じました。



■最後に
このコミュニティは在宅鍼灸師の悩み解決につながる場に感じますし、施術者が日々行っていることが間違えていないと答え合わせができ、また、不安解消につながるとも感じました。

私自身に目線を向けた場合、「新たな自分」に気づくことができて良かったかなと。視野も広がりましたし。

また、HAMTの運営に関わる方々は、医師、看護師、介護士、ケアマネジャー、生活相談員、各療法士等と連携を深めているためワードの一つ一つに社会性を感じました。
鍼灸師も社会に出たらただの一社会人であることを理解されている。

在宅鍼灸師としての成長だけでなく、社会人としても成長につながる。そうゆうコミュニティだと思いました。



■ついでに
「間」を大切にする。きっかけになった文章を共有させていただきます。

たとえば、道を歩いていていきなり車がぶつかりそうになったとき、だれしも一瞬ハッと息をのむ。水溜りをよけるとき、ぬかるみを渡るときも結局これと同様で、一般にわれわれはひとつの仕事をするときも(ものを考えるときもおなじであるが)、文字どおり息を凝らしてひたすらこれに打ち込む。
 このことを逆に言えば、呼吸に専念しているときは、だれでも隙間だらけであるということであって、むかしから真剣勝負では息を読みとられたほうがすなわち負けと言われた。
 つまり「動作」と「呼吸」はけっして両立しえないものであって、われわれがいわゆる"ひと息つく"のは、ひとつの動作からつぎの動作に移るそのあいだだけにかぎられる。これを「間」と呼ぶ。行司のかけ声、歌舞伎の呼び声など、いわゆる合いの手がはいるのはまさにこのときで、古来この瞬間をもっとも色あざやかにえがきだしたものが「能舞台」にみられる鼓と"笛の音"であるという。すなわち、「舞い」と「噺し」の呼吸のリズム、つまり息が合わなければ、それは文字どおり「間」違いとなってくるのであるから……。"気(=息)が合う"とはまさにこのことをいったものであろう。
 むかしからわが国では"気は心"といわれ、それかあらぬか「息」の漢字が「自らの心」となっている。呼吸が心情の表現であるのは西洋とても同じで、要するに"気が合う"のは"心が通う"以外のなにものでもないのであろう。だから心の交流のない人気関係では、たがいに「間」がもてず、間のび、間ぬけとあらゆる間違いが起こってくるのであって、ここからやがて相手の「間」になんとかして合わせようとする、文字どおり"間に合わせ"の計算努力がはじまる。

 人と人との交流ーそれは、心と心のふれあい以外のなにものでもない。ここで要求されるのは、文字どおり「間ごころ」だけなのである。
 われわれは子どものときから「真心」を教わってきた。いわば人間関係における最後の切り札として……。しかし心に「真偽」の別なぞ、もちろんあろうはずがない。誤りがあるのは判断だけなのだから……。すなわち、ここでほんとうに大切なのは、自分をふくめて人の「間」を知る心なのであろう。
 いまもしこの保証がなければ、いかなる、たとえば看護の理論もそして技術も、しょせん「間に合わせ」までのものとなることを、ここであらためて思い知らねばならまい。
三木成夫/「海・呼吸・古代形象」/うぶすな書院

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