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2021-04-30 映画:長州ファイブ

映画・長州ファイブ(2006年)主演:松田龍平

幕末の世、日本の未来のために刀を捨てた、サムライがいた。


攘夷の嵐が吹き荒れる幕末期に幕府の禁を破ってイギリスへ命がけの密航を果たし、後に近代日本の幕開けに大きな足跡を残した長州藩の5人の若者、『長州五傑(長州ファイブ)』と呼ばれる、山尾庸三、伊藤博文(俊輔)、井上馨(志道聞多、井上聞多)、井上勝(野村弥吉)、遠藤謹助、の激動の運命を描く歴史ドラマである。また、この映画の製作に当たり山口県萩市・下関市の地元企業や市民の全面協力体制で創られた地方創世映画でもある。

ペリー率いる黒船の来航以来、尊皇攘夷の気運が勢いを増す幕末の日本。そんな中、西欧に人材を派遣し見聞を広め学問や技術を習得することが必要と説く佐久間象山の言葉に深く心を動かされた長州藩の若者、志道聞多。見つかれば死罪という国禁を犯してまでもイギリスへ渡りたいという聞多の情熱は、藩主の毛利敬親にも聞き入れられ、藩は密航を黙認するのだった。こうして、志道聞多と彼の情熱に突き動かされた山尾庸三、野村弥吉、伊藤俊輔、遠藤謹助の5人は「吉田松陰」の教えを胸に、日本の未来のため、遥かなる異国の地、イギリスを目指して危険な航海に旅立つのだった。

イギリスの最新技術や知識を日本に持ち帰るため、自らを“生きたる機械”にせんとした長州ファイブの運命とは……?

史実からの雑学
山尾庸三の日記によれば、秘密留学のため秘かに乗り込んでいた英国船が横浜港から無事出港したのは、1863年(文久3年)5月12日(旧暦)であり、それは長州藩が「攘夷決行」の叡慮(えいりょ)および幕命にしたがって馬関攘夷戦争(下関戦争)を開始した2日後であった。

・叡慮(えいりょ)、天皇のお考え、御意向「―を承る」

・馬関攘夷戦争(下関戦争)
ペリーの来航によって日本は開国をすることになったが、依然国内には開国に反対する声も多く、攘夷の聖旨(せいし)の孝明天皇は、日米修好通商条約締結の勅許(ちょっきょ)を拒否した。1858年江戸幕府大老職に就いた井伊直弼は、勅許を得ないまま条約に調印。貿易によって国内経済が混乱し攘夷の気運が高まり、国内の攘夷派と朝廷は結びつきを強めた。井伊大老はこのような動きに対し、弾圧を加え(安政の大獄)、その結果攘夷派の反感を買った大老は桜田門外の変で暗殺され、このことによって幕府の衰退ぶりが浮き彫りになった。

1863年、攘夷論の急先鋒だった長州藩は、馬関海峡に砲台や軍艦を配備して海峡を封鎖し、同5月10日、現在の北九州市田野浦沖に停泊していたアメリカ商船に砲撃を加え、これを周防灘に追い払った。続いて23日には仏艦を攻撃、さらに26日にオランダ艦にも砲撃を浴びせた。

同年6月、アメリカ軍艦が報復のため馬関海峡に侵入、長州藩の軍艦を攻撃し撃沈、つづいてフランスの軍艦2隻も襲来し、陸上の砲台をことごとく破壊したが、長州藩は奇兵隊を結成するなど軍備をさらに増強し海峡を封鎖し続けた。

海峡の通航不能が続いたことと攘夷論によって開国政策が後退するのを恐れたイギリス駐日公使オールコックはフランス、オランダ、アメリカとともに下関を攻撃する決意を固めた。1864年8月、四カ国連合軍は17隻の艦隊を組織し、前田から壇ノ浦にかけてと、彦島の長州砲台に猛攻撃を加え、陸戦隊を上陸させて占領した。欧米の近代兵器の前に長州軍は完敗し、以後は積極的に外国を受け入れ、やがて討幕運動を推し進めていくことになる。

・聖旨(せいし)、天皇のお考え、御命令
・日米修好通商条約 https://ja.wikipedia.org/wiki/日米修好通商条約
・勅許(ちょっきょ)、天皇の許可を指し、勅令による免許を意味する
・安政の大獄 https://ja.wikipedia.org/wiki/安政の大獄
・下関戦争(馬関攘夷戦争)四国艦隊下関砲撃事件
 https://ja.wikipedia.org/wiki/下関戦争

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