若い人についていけない

雑記
若い人についていけない、という言葉を甘えだと思ってた。進化していくテクノロジーや変わっていく文化に壁をつくって、あぐらをかいているように見えた。そういう人は時代に取り残されて当然…とまではいかないが仕方ないだろうとどこか見捨てていたのは、子供の頃からインターネットで育った弊害だ。ひどく後悔している。

最近、叔母がよくスマホのことがわからないと聞いてくる。ボケているわけでもなく、同じことだったりする。最近はいつも申し訳なさそうに聞いてくる。
自分よりも30歳は離れている年下の人間に、もうわたしは歳だからと自虐混じりに教えを乞うことに、底知れないほどの絶望を感じられた。

メールアプリの受信フォルダにフィルターがかかっていて困っていた。フィルターがかかってるから外そうと伝えたが、そもそもフィルターという言葉がわからなかった。たくさんメールがあってわからなくなると困るから、メールが探す機能があるんだよなんて教えたら「私は使えないわね」なんて返してきた。フィルターという言葉を出したことを後悔した。
この人はスマートフォンという生活必需品を使ってる時に「なんだかわからない」という曖昧な不安がついて回っているのだろうか。

叔母が無呼吸症候群になってしまい、CPAPという機械?を借りてきた。マスクへ空気を送り酸素の通り道をしっかりと確保しようという治療法らしい。
叔母はBluetoothと機内モードのアイコンを見て、これもなにかに繋げないといけないのか?と不安そうに聞いてきた。
この機械にはどうやら専用のアプリで簡単に操作ができる機能があるらしい。テレビは横のボタンでも操作できるけど、リモコンがあると楽だよね、と例えで伝えたらすんなり理解してくれた…と思う。アプリでは睡眠のレコードなども書かれていたが伝えるのはやめた。
命に関わるものさえよくわからないまま使わないといけなくなってしまう恐怖は俺はまだわからない。叔母はそういうことを俺に聞いてくる。信頼はしてくれてるみたいだけど、俺みたいな人間が知っているだろう"常識"を医者や見ず知らずの人に聞けるのだろうか。
高齢の方が「若い人についていけない」とこぼすのは必ずしも年齢にあぐらをかいているなんてことはない。最近叔母は「もう私の時代じゃないから」みたいな言葉をよく使う。それは自分の息子が18歳まで育て上げた期待のような言葉なのだと思っていたが、周りのものが得体の知れないものになっていく恐怖も入っていたのかも知れない。
俺も例外では無くて、ChatGPTなんかにはちょっと距離を置いている。積極的に新しい技術を生活や仕事に受け入れたりしていない。最近はスマホでコミュニケーションする時になんだか文字を打つのが面倒だから「ボイスメモ」でやり取りをする若者もいるみたいだ。
文化も技術も気がついたらどんどん変わっていく。今chatgptをガシガシ活用したりしていない多くの人間を見るに、「若い人についていけなくなる」と思う。俺を含めて。

ああ、結論がない。
叔母が苦しそうな時があるのが嫌だから、なるべく平易な表現で機械さんについて話すようにしていくぞ!という決意表明です。
高齢とか若者とかそういうんじゃなくて、人と人のコミュニケーションで困ってたらきちんと声をかけていきたい。
若者についていけない、なんて言葉にはhelpのサインが含まれてるかもしれない。表面的な言葉の意味では無く、コミュニケーションの結果としての真意を汲んでいきたい。
以上です。

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