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創作がありふれたこの世界で

バレーボールをやっていて一度だけゾーンに入ったことがある。

フロー(英: flow)とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/フロー_(心理学)

中学1年生だった僕は友人が多いからという理由でバレー部へ入部していた。
まだハイキュー!の連載が始まる前なので、「ハイキュー!の日向翔陽にあこがれたの?w」ってバカにされるとはつゆほど知りませんでした。
チビがバレーしてるからってバカにするな。バカって言う奴がバカなんだよ。バカが。
ジャンプで流行りの少年漫画はもっぱら黒子のバスケで、この時に「ゾーン」のことも知った。
先述したとおり、心理学的にはフローというのがベターらしいけれど、読んだ当時は創作のたぐいだと思っていた。

しかし、中学2年の秋ごろの練習試合時に
「周囲の音が消えて」「ボールがスローモーションに見えて」「相手の手の位置がよく見える」ウソみたいな状態に入ったことがあった。
たった1プレイだったけど。
この事象が本当にゾーンなのかは知らないが、それまでの自分では考えられないぐらいの集中力が発揮されて、なにより自分の体が思うように動いてとても気持ちよかったことを覚えている。
私の現実が少しだけ創作の端にかかった瞬間で、あの一瞬の快楽がバレー部に入って良かったと大事にしているような出来事となっている。

そういった経験からか、創作物は手の届かないところにあってほしいけれど、それでももしかしたら現実に降りてくれる。そんな夢想主義的な距離感を大事にしている。
けいおん!の彼女ら5人の日常にあこがれて聖地へ行ってもギターを弾いてみても実際に彼女らへ触れられない。
けれどふわふわ時間のイントロでDコードを押さえてみたり、京都へ行って変哲のない交差点を眺めるだけで彼女らの足跡みたいなものがうっすら見えてくる。
これらが尊いのは彼女らの信念が変わらずそこへあり続けるからで、これこそが僕は創作物の最大級の魅力だと思う。

反して余計に、キャラクターひいては創作物へ僕らが介在して物語が変化するコンテンツも多く見られる。
2年という月日が流れた「ガールズラジオデイズ」の話をしかけたので、いい加減にぐっと堪えて「Cheer球部」の話にしようか。

誰かの物語に介在する行為は全人類が好きだ。
2chの安価が物語っている。
当初Cheer球部へ想像していたのは、ファン投票で「勝負の決着」がつくとかだった。
あくまで舞台装置としての介在を想像していたが、「この時に彼女が選んだ選択は?」というのを目にした時になんだかギャルゲーの1人称みたいだと思った。
彼女らの行動を僕らが選んだら、彼女の意志、信念はどこへいくのだろうか。

…という風に感じたのは事実だが、彼女らの選択肢は限られており支離滅裂なことにはならない。
あくまで彼女の「選択の余白」にお邪魔しているのであれば、当初想像していた「勝負の決着」と同程度の深度のはずだ。

だからこれは僕があまり得意ではないというだけの話であることを忘れてはならない。
キャラクターの意志に僕らは直接的に関わっちゃいけないという思いがあっただけだ。
創作物と受け手の距離感を僕自身が決めていて、僕の価値観が反映された結果の感情だ。同時に、決めてしまったこれは簡単には変えられないなあとも強く思うし、やっぱりキャラクターの選択を僕らが選ぶのには、納得すれど好きにはなれない。
僕が自分の決めた距離感を変えられないように、僕以外の距離感だってそういうものなのだと思う。
だからこそ、僕は他人の決めた距離感をバカにしないで欲しいし、僕自身もバカにしたくない。
バカと言う奴がバカなので。


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