近況——2024年6月下旬・7月の総括に代えて

 久々の投稿となった。
 精神的に酷く参り切る生活が長く続いていたせいで、noteではすっかり筆不精になってしまった。Wordファイルを使った日記めいた何かはこそこそと書いていたが、公にしない前提で綴っているために内容がいかがわしくなりがちである。曲がりなりにも、人様に読んでもらえる場としてnoteが機能するのであれば、多少は無理を押しても記事を公開していきたい。
 無論、一つの記事に血道を上げ過ぎて長続きしないようでは話にならない。6月上旬までは景気よく饒舌でいられたが、そうした健やかな能弁も当たり前の産物ではない。出し惜しみや書き足りなさを程よく抱えておくのが、適切な塩梅なのだろう。

何をしていたのか

 修士論文もやらず、のんべんだらりと生活してしまっていた。毎年のことだが、春学期は前半を全力で駆け抜け、中盤で精根が尽き始め、後半で失墜する。沈降しきった精神状態のままに夏休みを迎え、休職前に味わった最悪の心境をなぞるように反復し、何も為せずに終わる。
 今年は流石に歯止めがかかり、今週の月曜から計画的に修士論文を進められるくらいにはなった。午前中は研究に関係ない好きな本——今は東浩紀『動物化するポストモダン』を読んでいる——をゆっくりと繰り、午後はバイトの直前まで主として修士論文を執筆する。バイト後は適度にネットの海を揺蕩いながら、日記代わりの文章をしたためたり、読み足りない分の本——これは文学作品と決めている——を摂取する。バイトを始めるにあたって構想していた理想の生活が現実化してきたので、ようやく胸を撫で下ろした。

排泄物みたいな心の声の寄せ集め

 今回は記事の構成をまるきり考えないで作成しているので、思い付きのツイートに等しい思惟の断片を、箇条書きで自由に綴っていく。

・とよ田みのる『これ描いて死ね』を読む。既刊の6巻分を全て読み終えてしまい、続きに飢えている。創作を純粋に楽しむ高校生の日常が描かれている作品で、透明——あるいは第三者的、客観的——になったつもりで全くなれないままに何かを論じたがる傾向のある私にとっては、優しく説諭を与えてくれるような存在となっている。私も、何かを創作していきたい。
・東浩紀『動物化するポストモダン』を読んでいる最中である。第一章は全体的に、どうも気宇壮大に何かを言わずにいられない病の発露のように思われて、話半分に受け止めた。「疑似日本」という語を使っての議論は、作り手に定位して話をする一方で、受け手の範疇にも中途半端に関わるせいで、話題の対象が定まらない曖昧さを抱えている印象を受ける。やはり、無理やり「疑似日本」などと総体的に論じようと齷齪するあたり、東自身も「大きな物語」の下に教育された一人ということが窺えるか。現在は第二章の途中だが、オタク文化とポストモダン論とを重ね合わせながら消費行為を分析する流れは納得がいく。「データベース」なる——まさに経験的なものとしてのシミュラークルを可能にするという意味で——超越論的なものの位置づけが判然としないところにやや不満が残るが、おおよそすんなりと飲み込める話である。私自身が一種の当事者であることも、理解を手伝っているのだろうか。データベース消費は少なからず——レヴィナスに引き付けて言うならば、自己理解の外側に位置する「他者」への想像力を抹殺するが故に——忌むべきものだが、そうした消費の在り方が主流として確立されつつある現状を受け止めた上で、己がどうするかを必死になって考えなければならない。ここで、安易に既製の思想から解決案を模索することだけは死んでも避けたい。後、知恵あり顔で達観するくらいなら、必死に考えた挙句に答えが出せず、苦悶の表情を浮かべている方がどれだけ良いか知れない。
・『学園アイドルマスター』の初ライブを配信で視聴する。自宅とはいえ久々のライブだったので、心がひたすら昂った。自宅ならば、椅子の上に立ってジャンプすることも可能である。己が法なのだから。
・以下のようなツイートを見つけて、実践しようと臍を固める。

ゆる○○ラジオの本編には毛ほどの信用も置いていない——この記事を読んで下さる奇特な方には、是非とも視聴をお勧めしない——が、ツイートで言及されている読書法は好奇心の限界を上手く破ってくれるように感じられる。あえて小言を言えば、これを「読書テク」などという汚らしい表現で纏めてしまう所に、ゆる○○ラジオの限界が端的に示されている。
 現代は、ネットの利便性がエコーチェンバーといった世界の矮小化を急激にもたらし、「寄り道」をすることが困難になりつつあることは否定し難い。そうした矮小化に抗うためにも、好奇心の限界を突破していかなければならない。しかし、無理に突破しようとしても、そもそもの原動力としての好奇心が湧かないのだから、食指も動かない。ならば、辛くならない範囲から始めれば良い。その濫觴として、「図書館の天使を信じる」のはかなり易いのではないか。
・対象への好奇心の有無こそ、才能に関わる事柄ではないかと考えることがあまりにも多くなった。
・ニコニコ動画が復活したので、嬉々として猥雑な音MADを日々視聴しているが、復活の感慨は思ったよりも乏しい。小学校の高学年から視聴していた割に、そこまで思い入れはないのだろうか。
・SOUL'd OUTにまた熱中している。聴くだけではなく、カラオケで歌えるように練習も密やかにしている。「密やかに」などと言うならここで事実を開陳するのは無粋だろう。「もう君等もいい加減やめた方がいいぜ Pay money for くだらねぇ事」とBro.Hiに言われそうで胃が痛い。
・とにもかくにも、何らかの形で創作をしなければならないように思う。この実践を欠いて批評ばかりに明け暮れることで、何か大切なものを失うばかりか、他人の大切なものを踏み躙ってしまう予感がある。私はここで批評を創作とは認めていないことを明らかにしたように見えるだろうが、尋常な批評に対して否定的な気持ちを抱いているだけであって、特定の創作的批評は例外である。論者の固有性が際立ってやまない、それでいて独善的でない批評など、己には全くできそうにない。だからといって、諦めていい口実には少しもならないのだが。
・結婚について考える時間が自然と増えた。何も両親に急かされている訳ではなく、仲の良い人たちが相次いで結婚したからである。下らない意識、すなわち結婚して家庭を築くのが当たり前という発想で結婚するつもりなど、どこにもない。ただ、何となく面白そうという理由でしてみたい。後は、平素は威張ってやまない癖に、孤独への耐性がほとんどないのも一因か。
・飲食店のバイトを始めて、本当に良かった。バイト終わりに、路上で座りながら自分よりも六、七歳若い大学生たちと話すことでしか知ることのできない物事が沢山ある。それは、単に知識として還元されてしまう性質のものではない。身体を突き合わしての会話によってしか会得出来ない、何かしらの感触がある。私はそれを求めていた。大学院という極めて閉鎖的な空間では、研究が好きな人たち——彼等の多くは人格的に優れていて、大いに尊敬に値することだけは注記しておきたい——に囲まれるばかりで、己を酷くつまらない人間にするには十分すぎる要素が詰まっている。研究に真摯であることが当たり前となる環境では、その当たり前が通用しない世界を見取る視力の減衰は必定である。この減衰を無意識に遂行させじと、私は臍曲がり精神を発揮して、文系大学院生が基本的にはやるはずもないチェーン店のバイトを始めた。目論見は上手く行っている。職場は優しい人が多いため、苦痛はほとんどない。あるとすれば、お盆になって客の質が著しく落ちたことくらいである。
・8/14 00:43現在、自分のTwitterアカウントで固定ツイートになっているのは以下のものである。

有難いことに、色々な物をお勧めしていただいた。私が普通に生きていたら絶対に触れることのない物を目にして、歓喜は極まった。しかし、前述の精神的不調によって、まだ何一つとして手にできていない。今の状態なら少しずつ消化できる、気がする。
・KBMの先輩であるさちたまさんのスペースにおける会話を契機に、自分が重ねてきた音ゲー早慶戦での思い出を今の内に全て吐き出しておこうと決意する。
・KBMの同期であるゆさとの金沢旅行は、本当に楽しかった。振り返るには時間が空き過ぎてしまった——6/29-7/1の2泊3日だった——ため、恐らくまとめず仕舞いになるが、今でも思い出しては反芻し、恍惚とした気持ちに浸っている。

 あまり書きすぎると、次回の負担になるのでここまでにする。

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