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違和感について。現在地を辿ること。

 違和感を大事にしたいと常々思っている。違和感こそが個性だから。

 「何か気持ち悪いな」と思うこと。「何かがおかしい」と感じること。直観がまず先にくる。そして細かく検証してみて、その正体を、概念を見つける。然る後に言語化する。僕はこのプロセスを大事にしている。

 いかにたくさん見てきたか。検証してきたか。概念化して、言語化してきたか。その繰り返し。言語化は大事だ。概念としては理解できているように思えても、いざ言語化しようとすると躓くとしたら、それは多分きちんと理解できていない。

 思うに「言語化する」ことは「現在地を知る」ことに似ている。それも、正確な座標だ。ぼんやり概念を理解した気になってるのは、「何となく今東京都渋谷区らへんにいる」っていう程度の感覚にすぎない。それではあいまいすぎる。友達と待ち合わせができるほどの精度はない。

 直感的に思ったことを検証してみたら間違っていたりずれていた、ということもある。今自分が北に向かって歩いていると思ったら実は微妙に東に振ってた、とか。そのくらいはよくある。
 何なら方向が真逆だったなんてこともあるだろう。それはそれでいい。まず現在地を知ろうとすることが大切だ。地図を見て、今自分がどこにいるのかを検証する。「あ、違ってたわ」と知ること。これが大事。これに早めに気づけたなら充分修正できる。


 まずいのは、「何となく違うんだろうな」と薄々感じながらも立ち止まって検証することを怠って歩き続けてしまうこと。これはまずい。いつの間にか暗い森に迷い込んで、帰り道を失うかもしれない。


 一方で、歩いてた方向がたまたま合ってた、という状態も気を付けるべきだ。世の中の成功者の言が役に立たない理由はここにある。たまたま合ってただけなのだ。たまたま合っていたという結論ありきで後から理由を考えてそれっぽく言ってるに過ぎない。
 本人ですら、なぜうまくいったのかは多分よくわかっていない。その人の言を信じて同じように道を歩こうとしても、そこにあるのは濃霧だ。先が見えず、気づいたら足元をとられてしまう。その人と同じ場所にはたどり着けない。


 知るべきなのは真理だ。霞が関から国道一号線をひたすら歩けばやがて横浜に着く。そういう誰にでも同じように当てはまる道を知ること。まずはその道を理解する。
 その上でなら、時折あえて道を外れてみるのもいい。知らない道をぶらぶら気の向くまま好きなように歩いてみて、わざと迷い込んでみるのも一興だろう。
 しかし、頭のどこかでは自分のおおよその居場所を常に意識しておく必要がある。そして必要があれば素早く現在位置を特定し、メインストリートに戻れること。これが大切だ。


 現在地はここで、大通りからはこれくらい離れている。日が落ちるまではまだ2時間ある。もう少しここに留まろう。


 ところで、その時計は本当に合っているか?