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「逃げるは恥だが役に立つ」

「逃げるは恥だが役に立つ」。通称「逃げ恥」。
連ドラをほぼ見ない自分が久々に、そして滅相ハマり、ドラマが終わったこの2017年に入った今でもロスに陥っている。ここまでドラマにハマったのは「あまちゃん」以来である。

この作品のどこが自分に刺さったのか。日本中を席巻した「恋ダンス」含めたガッキーの可愛さ、星野源の童貞感満載な演技、はたまた、契約結婚や雇用といった日本の社会問題を取り込んだ描写の数々…どれだけ挙げてもキリがないし、全てひっくるめて最高なのである。うん、「逃げ恥」は最高だった。それで終わっていいかなと思った。幸せな気持ちになれたし、それ以上も以下もあるのかと。

しかしだ。この落ち着かない気持ちは何だろう。最高だっただけでは収まらない何かがこの作品にはあると勝手に思い、今に至る。

元々音楽を聴くのが一番の趣味であった自分ですが、2016年については音楽より映像作品に惹かれることが多かった一年。夏に映画界の枠を飛び出し世間を賑わした「シン・ゴジラ」「君の名は。」については何度も映画館に足を運んだりした(特にシン・ゴジラは4回見に行きましたが、これまで見た映画の中で文句なしに一番と思っています)。そして秋、トドメのように出てきたのがこの「逃げ恥」。

このドラマを見ようと思ったキッカケが、新垣結衣、星野源、古田新太など好きな役者が割と揃っていたこと。次に、脚本家が野木亜希子さんという、2015年個人的に好きだった連続ドラマ「掟上今日子の備忘録」を手掛けた方だったこと。

この2点が、今回自分に「逃げ恥」を見る気にさせたポイント。なお、脚本の野木さんと新垣結衣は2015年の個人的傑作ドラマ「掟上今日子の備忘録」でもタッグを組んでいまして。この作品もおススメです。特に7話以降は本当に素晴らしい。


話が逸れた。「逃げ恥」についてだが、この作品から受けた気持ちを、自分の中で消化しないといつまで経ってもロスに陥ってしまうと思った。年始以降の貴重な休みをずーーーーーーーーっと紅白のガッキーによる照れ照れ恋ダンス動画を見返すだけに費やしている自分が、このまま2016年に取り残されていくような感じになっているので、自分の気持ちを整理するために、とりとめもなく文章を書いている。

この時のガッキーの照れさといったら反則もいいところです。。。


さて、「逃げ恥」を見ていて実感したのは、主人公のみくりが持つ想像(妄想)力の豊かさと大事さ。自分もみくりのようにありたいって思わせてくれる。ストーリーの過程で平匡はみくりの想像力によって、それまで自分が思っていなかった、考えてもみなかった世界に足を踏み入れ、そして殻を破っていった。

自分は実人生において、平匡に感情移入してしまう以上に、実際に自分は平匡なんではないかと思うぐらい考え方が似ていた。いや、あそこまで頭良くないですよ?高学歴で人ひとりを養えるほどの経済力を持った男ではないのです。そんなスペックに差がありすぎる平匡と自分でも、共通してるなと思わされたのは人との距離感に対する自分の在り方。相手が自分に踏み寄っている中でも自分のテリトリーを守ることを第一に考えてしまう気持ち。自己内から出ることの怖さはいつだってある。

『自分がこうしたら相手はどう思うのか。きっとネガティブな反応や否定的な意見を言われるだろう。そう思われたくない、言われたくない。だから今のままでいい』

自分が周りに対して何かしらの劣等感を持つからなのか、自分じゃ無理だ、だから今のままでいてほしい、変わらないでほしい。そう思ってしまう。

でも、その自己完結から一歩進んで、相手に寄り添う想像と提案をすることが、相手にささやかでも幸せな気持ちをもたらすということもあるし、結果的に自分をより幸せにするきっかけにもなりえる。自分自身もそういった覚えはあるし、喜びを味わったこともある。平匡もみくりに感化され、徐々にだが自分の殻を破り、みくりとの距離を縮めていく。変化することを恐れない勇気を持っていく。

みくりはその点は無自覚に、ただただ職場環境をより良くするために、更に自分と平匡の関係性を崩さない事には自覚的に思考を巡らせ、都度建設的に話し合いの場を設け、提案しては相手の答えを待つ。その時、相手に拒否的な反応をされても、お互いにとって納得のいく着地点を探そうとする。至極当たり前のようなことなのだが、今、この当たり前が無くなっているように感じるのは自分だけなのだろうか。相手の声を聞かず、一方的に自分の意見を「世間一般の認識」かのように、そう、まるで「普通」と言わんばかりに押し付けられることって、少なくとも自分は多く感じてしまう機会は多い。息苦しい世の中である。

最終話では、その息苦しい世の中をサバイブしていくために知恵を絞り、想像と構築を繰り返してきたみくり自身も、「小賢しい」という呪いに押しつぶされそうになり自暴自棄に陥る展開に。そこでみくりを救うのは、同じように呪いにかかっていたことのある平匡。みくりによって呪いから解放された平匡が、呪いに負けそうになるみくりにある言葉を投げかける。

みくりさんは自分の事を”普通じゃない”と言うが今更です。とっくに知ってました。たいしたことじゃありません。僕達は最初から普通じゃなかった。

同じような言葉を、第8話で平匡はみくりから投げられている。自尊感情の低さからみくりの誘いを拒否してしまったことに対するやり取り。

平匡:僕が先に言わせてください。僕は、女性経験がありません。それでもいいと思って、生きて来ました。だけど、あの夜、失敗したらどうなるだろうって。拒絶されたどう思うかということは全く頭にありませんでした。ごめんなさい。未経験だと知られることが怖くもありました。
みくり:知ってました。とっくに。色々総合してそうかなって。私にとっては、大したことではないです。


みくりが何気ない一言で平匡の呪いを解き、そして反復するかのように平匡もみくりを呪縛から解放するという一連の流れは、お互いがお互いを許容していくことの重要さが印象深く、この作品の本質が浮き出た箇所だと思う。

そして、それぞれレッテルを持っていて、自己否定してしまっている登場人物が、最終的にはみくりが監修した青空市という、名前の通り青空に包まれた中で各々呪いから解放されていく様はカタルシスがあり、一視聴者である自分もどこか救われたような気持ちになった。

普通って何を持って普通と指すのか具体的にわからない。勿論、人に迷惑をかけるのは論外だけど、「○○だからこうあるべき」というような概念は自分と相手で一から再構築し、その時その時で最適解を出せばいい。


私たちを縛るすべてのものから、目に見えない小さな痛みから、いつの日か解き放たれて、時に泣いても、笑っていけますように。


最終回後半のみくりの言葉。こんな風に自分の大切な周りの人と過ごしていきたいと思わせてくれたこと、そして、東京フレンドパークをパロディ化して表現されたラストシーンは、あらゆる未来を想像し、否定せず、模索していこうというメッセージだと勝手に受け取り、勝手に救われた気持ちになった。

このドラマを見れて本当に良かった。

最後に、同じようなテーマを持っていると勝手に解釈している曲の歌詞を掲載して終わろうと思います。肯定することの大事さを歌った曲。

ひとつにならなくていいよ 認め合えばそれでいいよ それだけが僕らの前の 暗闇を優しく散らして 光を降らして 与えてくれる


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