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『花束みたいな恋をした』

人を好きになり、付き合うまでの初々しさ。

ただただ相手を思い、相手も自分を思ってくれている時の無敵感。

時間が経つにつれてすれ違う思い。相手を想っているはずと思っているが、実はズレてしまっている何か。

その全てを感じたことがある人はきっと少なくないだろうと思う。

映画『花束みたいな恋をした』で描かれた、麦(菅田将暉)と絹(有村架純)という二人のカップルの5年間は、そんな眩しい光のような恋を始まりから最後まで見せてくれるラブストーリーだ。


はじまりはおわりのはじまり

傍から見たら誰も知らないんじゃないかと思うようなバンドや漫画、本やその作り手の名前。それらに触れている時だけが自分を生かしてくれているように感じられる時期があった人はどれだけいるのだろう。

自分を生かしてくれるものを共有しあえる相手と出会えるだけでも、きっと幸せであろう(SNSで知り合うならともかくリアルで)。

ましてや、相手の存在が”彼氏”、”彼女”という最も近しい存在になってくれた時に得られる多幸感は何物にも変えがたい。
そんな二人が過ごす時間は、目のくらむような眩しい光を放つ。

ひとりの寂しさより、ふたりの寂しさのほうがより寂しいという言葉があるが、それであればひとりの楽しさより、ふたりの楽しさのほうがより楽しいということもあるだろう。

麦と絹、ともに一人でも楽しめていた時間は二人になることでより強固となり、夢のような時間を過ごしてきたはずだ。

ただ、眩しい恋というのは、本当は見えていないといけないものも見えなくなってしまうのかもしれない。
共通言語が一緒であったことが二人を繋いだのであるからといって、すべてが通じ合うというのかと言われればそういう訳でもない。


お揃いのコンバスの白のジャックパーセルが、いつしか仕事用の革靴に。

ゴールデンカムイをリアルタイムで読んでいる側と途中で止まった側。

序盤のゾーラの里で止まってしまったゼルダの伝説ブレスオブザワイルド。

文芸ムックとビジネス書、選ぶ本の違い。


時間が経つにつれて徐々にすれ違っていく二人の生活模様はリアルで残酷でもあった。


どんなものにも始まりがあるなら終りもある。

絹が愛読しているブログ「恋愛生存率」ではいつも同じテーマで文章が綴られている。テーマとは、”はじまりはおわりのはじまり”。
別離による結末も、恋が成就して結婚となり、やがては家族愛というものに形が変容することもある種恋の終わりというのであろう。

新しい光と終わってしまう光

そんな中でもふたりは最後ぐらいに笑って自分たちの終わりを迎えようと思いを巡らせる。
クライマックスのファミレス。

二人はこれまでの二人の歩みを振り返りながらも一時は恋の形を変えることを選択しそうになる。


そんな最中で二人は、新しくとても眩い、恋という名の光が生まれる瞬間を目の辺りにする。

かつて自分たちが持っていた光に照らされた二人は、かつての自分たちをそこに重ねては、最終的に二度と自分たちが同じ光を持ち合わせることがない事を瞬間的に感じ取ってしまう。

ふたりの光は消えてしまった。ただし、光そのものの存在は決して消えはしない。

ふたりが大事に育てた時間は二人の中に確かに息づき、これからも二人を勇気づけてくれるときもあるはずだ。

そんなことを思わせてくれた作品である。

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