見出し画像

置いてかれた自分の薄切りを待っている

 先日、親の手術/入退院などあって、子供だけ置いてく不安はあったけどなんとかなるだろうと腹を決めそれぞれに「これでなんとか」と現金を握らせ、単身、数年ぶり、数日だけ実家のある岩手県に帰省した。

 旅慣れない、といわれればそれまでだけど身体の高速移動、には子供の頃からずっと適応できることがなく、幼少時は夜行列車、現在は新幹線乗るたびに身体以外の、幽体のような、よくわからん自分の"中身”みたいなものがついていけずにおいてかれていってしまう感覚が起こるが常で、しかも今回はコロナ禍という移動制限ブランクもあり東京駅を起点として”自分”が糊付けされそこからぐーーーーんと無理やり東北は盛岡駅までひっぱられていくような感覚をひどく強く感じ、糊はそんなに強くないし”中身”もそもそも充実されたものではないからごくごく薄くスライスされた”中身”がレイヤーになって、ポストイットのよにぴたぴたぴたと各地点に添付されるけど”中身”にも限りあるのでいよいよ在庫切れで途切れそうになると粘着が負けた起点および最後尾の自分がいやいやはがされ1つようやく前に進む、みたいなイメージで目的地に到着してもしばらくは長く長く伸ばされた薄く意味のないような自分が遅れてやってくるのを、伸ばされた蛇腹が元に格納される自分を待つタイムみたいな、それまではどうも現実感がともなわない期間となる。


 今回の帰省は3日で戻ってきたので、行きの自分(幽体)も格納が確認されてないような状態なのにもう自宅にいるこのたった今、あっちに一度行ったほうがいいんだか行かずにこちらに戻ればいいんだか解らず迷い、ふらふらしてる東北を縦断する2すじの置いてかれっぱなしの透明度低く薄い自分の切り身を想像し、無事戻ってこれるか、それとも迷子も出たりして、どこか足りないままこれからやっていかなくてはならないのか、と先に自宅に着いてる身体の殻が缶ビール飲みながら心配してる。

(到着一番、とても寒かった

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?