震災と復興と普通の大工さん

お疲れ様です。

今はコロナのおかげで世界的に騒いでいますが今日は3月11日ということで、僕にとっての東日本大震災の話しをしようと思います。

東日本大震災

3月11日の当日、ちょうど内装工事で階段を作っていると凄い地震がきました。すぐにラジオつけました。

「ただいま東北地方を震源とする地震が起きた模様です。こちらでも強い揺れを感じたので東北地方が心配です」

現場は大きな分譲地のモデルハウス。外に出るとたくさんの職人が仕事を止めザワついていた。
自宅に電話して嫁さんや子供の無事は確認できた。他にも電話をかけたがもう繋がらなくなっていた。
僕は親父が東北出身なのでもちろん親戚も東北にいる。隣の現場をやっていた仲の良かった大工さんも東北の人だ。すぐにラジオを持ってきて一緒に聞いた。

この時点でわかる被害でも今後、想像を絶する悲惨な状況になることが容易に想像できるものだった。すぐに仕事をやめ家に帰った。帰り道の信号は消えていて交差点はパニックだった。

被害は言わずもがな悲惨なものでした。みなさんも記憶されていることかと思います。みなさんの親族や友人は無事でしたか?
僕の親族は3人亡くなりました。街ごと津波でなくなった地域に住んでいたので災害のおそろしさは間接的に、悲しみは遺族としてならわかります。僕の名前をつけてくれたおばさんの遺影を見るときっと2秒で泣けるでしょう。声がデカくていっつも笑ってる元気な人でした。他にもおにぎりが異常にデカい優しいおばさん、お年玉が毎年1万円で腕相撲が強かったおじさん、思い出すとキリがありません。

日本には災害経験者が多くいます。災害は地震だけじゃなくて、最近なら台風がありました。こうした場面は心に余裕がなくなりがちですが、自分だけが助けてもらったわけでもないし助けたわけでもない、きっと今までもこれからも助け合いになるんです。誰かに助けられたらまた困った誰かを助けるリレーのようになれば素敵ですよね。威張らず、萎縮せず、謙虚さと感謝を意識できたらそうなれるんじゃないかなと思います。

復興支援の仕事

当時はいろいろなハウスメーカーや地場の工務店などに出入りしていたのであちこちから誘いやお願いがありました。
付き合いや今後のパワーバランスとか打算する部分もそりゃありましたが、被災者の親族だった僕は身内に直接お金渡すから募金もしてないし、何かできたらいいなって気持ちと経験の為にも行くことにしました。

プレハブが主流だった仮設住宅ですが、足りないから木造でも作る。普段は元請けの、施工能力がある大手が仕切ってくれって要請があったと聞いてます。
僕は先発で行くメンバーに入ることになった。日程と場所が決まる、原発から20キロ圏内だった。よく会う元請けの現場監督は原発を理由に任意で打診されていた仮設住宅の仕事を断った。その後の彼は出世コースから外れたと言われるようになった。
出発の数日前に放射能の影響で国から避難区域に指定されることになり建設予定地と日程が再編された。福島県内の別の場所に行くことになった。この頃には打診される諸条件にバラつきがあって、過酷な条件で行く職人もかなりいた。
僕は諸経費別、ホテルで1人部屋、3食付きで1日2万円の条件で行くことになった。

仮設住宅を建てる

現場に行くと、杭がうたれていた。松でできた太めの杭がたくさん。その杭の上に家を建てる、つまり杭が基礎代わりだ。杭を切り直し、墨を出して土台を敷いて床をつくる。翌日はレッカーを使い平家で1棟10戸の構造部分を終わらせる。それを2棟ほど担当した。基礎が杭である以外は、普段の工事とほぼ同じで売り物になる水準の作り方だった。

造作に入ると、断熱材は関東地域では長期優良住宅など高断熱仕様の家をつくるときに使われるグレードが高いものだった。寒冷地仕様だと普通なのかもしれないが。
床はカーペットだった。余りや寄せ集めだからか、色や柄は様々だった。天井や壁は全て化粧ボードでクロスは無し。ミニキッチンがついて風呂は普通のユニットバス、もちろんトイレは別。もしかしたらグレードが低いとかあるかもしれないがどれも設備は新品だったし僕には普通に見えた。仕上げのデザインはともかく、ここまでくると仮設と言うべきか悩むくらいに普通の家だった。きっとレオパレ○より防音されている。
3週間くらいこの仕事に行っていた。地元に帰ってきて止まっていた自分の現場に行くと窓ガラスが割られて泥棒に入られていた。火事場泥棒は被災地以外にもいた(絶望)

被災地で感じたこと

親戚が亡くなって失ったものもあれば、被災地に行くことで得た経験もある。風評被害で苦しむ福島県の方々の話しも貴重だった。みんな心を痛めていた。
繁華街のはずれにあった韓国人だか中国人だかのぼったくりバーも僕はマジで忘れない(怒)

僕が寝泊まりしていたのは大きめのホテルだったが、宴会場ではぎゅうぎゅうに布団が敷きつめられて寝泊まりしている職人さんたち、きっと赤の他人同士だ。
朝になるとホテルのエントランスで両親に行ってきますと声をかける高校生、本当に不思議な光景だった。
夜になると廊下の隅で1人すすり泣く親御さん、きっと子供の前では耐えてるんだろう。それ以外にもエントランスで今後の相談をする被災者のみなさん、仮設住宅に入るべきかアパート住まいか、保険やローンのこと、悩みは尽きないだろう。

なんとも言い難いこうした光景を肌で感じたことは、僕の人間形成の上でもかなり影響していると思う。寿命や病気など少しばかりの猶予も与えてもらえずに親族を失う悲しみもそうだ。
コロナなんかでくだらない転売、紙製品の奪い合い、我先に自分さえよければいいという光景を目にすると今まで災害にあってもなんとかやってこれたんだから、コロナでも同じように助け合えることあるんじゃないかな?みんなが他の誰かに今より少し優しくできたらきっと前より状況は良くなると思います。せっかくの3月11日です、少し昔を思い出してみたらどうでしょうか?
ここから先、僕も意識して助け合えたらなと思います。

以上、今日もご安全に!


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