コラム:1968年から50年 昔といま(ニューズ・レターNo.54、2018年6月号)

 今年は明治維新150年の年であるが、同時に1968年から50年目の年でもある。この時代の意味は何だったのかと大仰にかまえるつもりもないが、ちょうどそうした「1968年」を舞台とした庄司薫原作の映画『赤頭巾ちゃん気をつけて』(1970年、東宝)がリバイバル上映されていたので観てきた。上映していた映画館の連続企画のキャッチコピーは、「70年代の憂鬱 ―退廃と情熱の映画史―」である。1ヶ月間、作品17本を連続上映するという企画でその第一回目上映が本作品であった。
 当時、東京郊外の幼稚園にいた私にとっても「1968年」は同時代として体験しながらも、まだ物心が付くか付かない頃である。幼稚園で「アンポ反対」などと、当時の若者らのデモの真似をしたこともない。しかし、当時の人びとが何を考え、どんな欲望の中で生きていたのか、そして各人の日常を映画の中の表象を通して垣間見ることができるのは、素人の私にとっても懐かしさ混じりで楽しいことでもあった。知っている場所なども沢山出てくる。
 映画自体は、大学紛争で入試が中止となり、途方に暮れる受験生・薫クンがあてもなく東京の街を彷徨う話である。主人公・薫君の兄に「東大法学部では、世の中がどうしたらみんな幸福になれるかを勉強しているんだ」と語らせるセリフがある。同じ映画を観た本誌編集委員の鈴木貴宇先生曰く、消え行く進学校(日比谷高校)に、近代日本の「知的なるもの」(=教養主義)を重ねた団塊世代にとって、『君たちはどう生きるか』的な岩波教養主義を伝えるものだったのではないかと感想を述べておられた。一方、私にとっては、ピンキーとキラーズが『恋の季節』を熱唱しているのを聴いて、「政治の季節」からの時代の変わり目を想ったり、デートしているレストランの窓から視界に入ってくる屋外広告を見て、薫クンらが広告主企業の社名・商品名を連呼していたのが(ちなみに、これは映画のみの演出)、思想よりもモノへの気配を感じさせ感慨深かった。穿ち過ぎの面もあるかもしれないが、映像も一つの時代を伝える証言である。原作もスノビズム沢山で鼻持ちならない面もあるのだが、ともかく50年前の「昭和の記憶」は、日に日に遠くなりつつある。
 さて、私事ながら4月から大学に職場を変え、まだ一年生しかいない新学部で、目下、社会学の授業を担当している。「日常」とか「現実」という概念を、社会学からみるとどのように分析できるのか、具体例を挙げながら試行錯誤している。映画にみたような、時代の表象をつかまえることとも重なる面もある。はたして学生らにはどれだけうまく伝わっているか、いつも疑問ではあるが、過去と現在が混在する同時代史を語ることの愉しさと難しさを感じている。


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