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コラム:四日間だけの同一題号での新聞発行 ―占領期京都新聞史の一断面―(ニューズ・レターNo.99、2023年9月号)

 先日、占領期の神戸・大阪・京都の三都の表象をめぐる助成研究がひとまず終了した。筆者も共同研究者の一人として京都、舞鶴の心象地図を作成するため、記憶の地層の掘り起こしに取り組んできた。先行研究を概観する中で、占領期京都の夕刊紙競争があまり注目されていないことに気付いた。
 占領期の京都では、京都新聞系の『夕刊京都』のほか、読売系の『京都日日新聞』、朝日系の『都新聞』も誕生して、「新興夕刊紙が三つも発行されるにぎやかさ」であった(京都新聞百年史)。その後、1950年代には、戦前の新聞と同一題号でありながら別資本の夕刊紙『京都日出新聞』が加わる。一般的に占領期の地方紙は、GHQの新興紙育成策もあり、雨後の筍のように誕生していたが、京都においては読者の興味関心に応えるべく各紙とも記事内容で競争していた。
 そうした過度の競争の帰結であったのだが、「新聞界でも珍しい同一題号の新聞が別々に発行された」という珍事態がみられることとなった(前掲・百年史)。1949年8月1日、経営不振に陥っていた『京都日日新聞』(以下、京日)の編集・発行を、京都新聞社が引き継ぐこととなった。合併に反対していた旧京日社員が旧社屋で新聞発行を続け、京都では二つの京日が出現することとなった。
 同紙のマイクロフィルムを閲覧すると、8月5日(第1199号)から8日(第1202号)まで、全く同一の通巻番号で、従来の京日(京都市中京区烏丸通三条入ル)と、京都新聞社に合併された京日(京都市烏丸通・新聞会館)が発行されていることがうかがえる。
 結局、旧京日は手持ちの新聞用紙がなくなると、合併反対を主張していた労働組合が姿を消してしまったとのことである。筆者の知る限り、日本の新聞史で複数の同一題号紙が同じ期間、発行されたという例は寡聞にして聞かない。
 戦後直後の京都の夕刊紙には、京都新聞の別メディアとしてGHQに好感の持たれた元同志社大学教授の住谷悦治を論説部長に据えた『夕刊京都』が硬派な記事を載せたのに対し、戦後、女性記者10名を採用し、かつ織田作之助の連載小説「それでも私は行く」(1946年)を掲載した京日は、興味本位との批判もあったが、読者の声を積極的に拾うために移動編集局を設置したり、プロ野球巡業などのメディアイベントを行ったりと新機軸を打ち出していた。しかし、1950年代に行われた新聞界の購読調整で、こうした競争も終焉を迎え、夕刊紙も減少した。
 占領期の記憶と空間を掘り起こすには、新聞紙面を再読するというのは古典的な方法かもしれない。しかし、改めて複数紙のマイクロフィルムを再読するという手法は、あまり用いられてこなかったのではないかという感想をもった。地方紙の新聞記事データベースが十分作成されていないという事情もあるのだろうが、記事を精読していくことで、それまで見えてなかった記者の熱意、読者の声といったものが、いまも語りかけてきているように思われる。
(『Intelligence』購読会員ニューズ・レターNo.99)

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