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3つの「間」 ~私が「カフェ」を訪ねるもう一つの理由~

カフェ(*)を訪ねるのが好きだ。
社会人生活を始めたのが2006年。その頃から、足かけ15年以上の間、都会・田舎問わず、数多くのお店にお邪魔させていただいた。
その中で出会った、美味しいドリンク、料理、スイーツの味は、その時々の気候、お店周りの風景、自身の心境、そして何よりも店主さんなどの方々の姿と共に心に刻まれている。

*ここでいう「カフェ」は、コーヒー・紅茶・日本茶といった嗜好品をメインに提供するお店を指す。最近は、「コーヒー屋」のように、あえて「カフェ」と名乗らないお店もあり、カテゴライズも難しくなっているようである。ここでは、そういったお店も便宜「カフェ」に含めるということでお読みいただければと思う。

あくまで「想像」することしかできないのだが、「カフェ」を日々営んでいくに当たっては、楽しいコトや喜ばしいコトもあれ、それと同等以上に困難なコトもやってくる。お店の機材が突然壊れたり、味を大きく左右する食材が入手できなくなるなどのトラブルは頻繁に耳にする話。毎週同じ場所で同じヒトが同じメニューの商品を出し続けていくという一見簡単なコトのように考えてしまいがちな「営み」が、実は数々の努力、時には助け合いなどによってなんとか成り立っているのだということを人づてながら日々実感する。
このほか、時には、世界金融危機(2008年)、東日本大震災(2011年)、コロナ禍(2020~2023年)など、あまりに巨大な影響力で日常が一変してしまい、お店単体の力だけではとても立ち向かうことができないようなできごともある。
一介の客に過ぎない私には、あくまで「見守る」、または「応援する」といったコトしかできず、無力感に襲われることもあった。
しかし、こういった数々の困難なコト、厳しい局面を乗り越えてきたお店の方々は、辛い・苦しいといった面をあまり見せることなく、今日も私のような変人を含め、訪ねてくるお客さんを暖かく迎え入れてくれている。素敵な「カフェ」を日々変わらず営む皆様に、改めて敬意を表するとともに感謝を申し上げたい。

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人々が「カフェ」に行く理由は何なのか。
本質的には、美味しいドリンク、料理、スイーツなどを食したいというのが目的であろう。ビジネスライクな表現になるが、これらはお店の大事な「商品」であり、この「商品」の美味しさ、見た目の素晴らしさといった価値こそがお店の価値の根幹を成すと言えるだろう。

一方で、このような「商品」の価値とは別に、「カフェ」には、ヒトによって捉え方が大きく変わってくるような、曖昧だけれども美味しさとは別の尺度による価値があるように思える。
特に、「品質への安心感」「値段のお手頃感」「敷居の低さ」などを売りとする大手資本が経営するお店とは異なり、個人が経営するお店については、店主さんがお客さんに伝えたい「思い」が、「商品」とは別の様々な形でも表現されていて、それがお店の大きな魅力となり、訪ねてみたい理由につながっていると考える。

そんな「カフェ」の魅力・訴求力を、
3つの「間」 ― 空間、人間、時間 ―
というフレーズで整理してみたい。

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まず、1つ目の「間」、「空間」について。いわゆる「雰囲気」「内装」「インテリア」といった言葉でも表現されるもので、比較的分かりやすい概念だと思う。
インスタグラムでも、素敵なお店の空間を捉えた写真、リール動画が日々拡散され、「商品」と並んでカフェファンを惹きつける大きな要素になっている。「空間」と、「雰囲気」・・・などとの違いをあえて挙げるならば、お店に置かれている書籍・雑誌、オブジェ、またはお店に流れている音楽までもが「空間」に含まれるということを強調しておきたい。
お一人様行動が多い私にとって、お店の本棚やラックに並ぶ書籍・雑誌を遠目で眺めたり、実際に手に取って読んだりするのが「カフェ」を訪れる楽しみの一つだ。店主さんとのコミュニケーションが取れなくても、これらを見ることで、どういうお客さんに来てもらいたいか、どういう時間を過ごしてもらいたいかといった「思い」がなんとなく浮かび上がってくる。

次に、2つ目の「間」、「人間」について。分かりやすく言えば、店主さんのお人柄ということになるが、それ以外にも他のお客さん、特に常連さんの振る舞いというのも決して小さくない要素である。
「カフェ」で起きるできごとは日々異なり、「カフェは生き物だ」と評論する方もいらっしゃったような気がするが、それは本質的に「カフェ」とは店主さんとお客さんとの出会い、そこでの人間関係によって成り立つものだからであろう。

最後に、3つ目の「間」、「時間」について。上2つに比べて、言葉で説明するのが難しい概念なのだが、シンプルに表現すれば「自分が心地よいと感じるペースでヒト、モノが回っているか」というものだ。
具体的に説明すれば、休みの日に「のんびりとした時間を過ごしたい」という動機で田舎のお店を訪ねるときを想像いただきたい。自然豊かな森の中にある一軒家で落ち着いた空間、飾らない人柄の店主さんをはじめとする人間がいる中で、美味しいコーヒーやケーキを食べたり本を読むなどして小一時間過ごすことができれば、素晴らしい「時間」を過ごせたと言えるのではないだろうか。
しかし、現実には、お店の人気が過熱しているためにお客さんが次々とやってきては入れ替わりで心が落ち着かない、または料理・ドリンクのサーブが早すぎる/遅すぎるためにせわしない気持ちになってしまうというコトもしばしばある。この場合は、「空間」「人間」が素敵であったとしても、自分にとって満足のいく「時間」を過ごすことができなかったとなってしまう。
「時間」は、「空間」「人間」に比べて、その時々の状況に左右される繊細なものと言えるかもしれない。

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留意すべきは、これら3つの「空間」「人間」「時間」はあくまで「間」であり、お客さんというヒトを介在してこそ生まれるということだ。
堅苦しい表現になってしまったが、シンプルに言えば、心地よい「空間」「人間」「時間」はヒトそれぞれであり、同じお店であってもヒトが受け止める「空間」「人間」「時間」の印象は異なるということである。

お店に何気なく置かれたオブジェがヒトの琴線にふれたとき、そのヒトにとって心地よい「空間」となるかもしれない。
お店が偶然空いている時に、これまでオーダーとお会計の時にしか言葉を交わさなかった店主さんとお客さんとの間に自然と会話が生まれ、「人間」関係が花開くこともあるかもしれない。
せっかちなヒトにとってはしびれを切らしてしまうほどサーブがのんびりであっても、あるヒトにとってはオーダーしたスイーツをワクワクしながら待つ楽しい「時間」となっているかもしれない。

「カフェ」には、お店に訪れるお客さんそれぞれに「空間」「人間」「時間」があると言えるのだろう。特に個人経営のお店の場合はいろんな意味でキャパシティに制約があることが多いため、店主さん、お客さんそれぞれが自身の心地よさ・都合ばかりを優先するのではなく、他のヒトの気持ちを「想像」しながら、振る舞うことが必要なのではないか。

・自分が窓際の特等席を長時間占拠することで、別の誰かのお気に入りの場所、「空間」を遮っているのではないか。
・常連さんとの会話にばかり夢中で、初めて訪ねてきたお客さんへのサーブなど、「人間」関係がおろそかになっていないか。
・店主さんへの話し方、振る舞いが、他のお客さんと店主さんとの「人間」関係にも悪影響を与えていないか。
・自分たちの大声の会話やスマホで動画・写真を撮る音・仕草が、別のお客さんの「時間」を居心地悪くしているのではないか。

たかだか40数年しか生きていない若造が、僭越ながら一つ生意気なコトを申し上げるならば、「カフェ」に限らず日常の様々なトコロで、周りにいるヒトの気持ちを少しでも「想像」しようという行動がおろそかにされているように感じている。
もちろん、私自身の振る舞いも完璧とはほど遠いものだろう。
しかし、ヒトの気持ちを「想像」する・・・世間ではそれを「思いやり」「配慮」と表現することが多いと思うが、そういった振る舞いを大事にしていきたいと思う。そういった心構えが「カフェ」文化の中にいつまでも引き継がれていければいいな、と切に願うのである。

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これまで訪れた様々な「カフェ」でのできごと・・・頂いたドリンク・料理・スイーツ、店主さんからかけられた暖かい言葉、常連さんとの楽しい会話、窓から見えたきれいな自然風景・・・などなど私のカラダに浸透してきたものが、長い時間をかけて少しずつ「言葉」としてカラダの内から湧き出てきた感覚がある。

大切な思い出を振り返りながら、そんな言葉を丁寧に掬い上げ、ゆっくり記していければと思う。

(2024.5 記)

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