年を感じます。

二十を過ぎてから年を感じる。
まずは、食の好みが変わってきた。
10代の頃の私は、好き嫌いがなんせ激しかった。お味噌汁(豚汁のみ)が飲めるようになったのは小学校に上がってからだし、駄々こねて時間が経って冷えきったご飯を食べるのは日常茶飯事。その割に納豆や好きなものは人以上食べる。いわば偏食女だったわけであるが、20代になり、親元を離れてから、かぼちゃやなす、根菜を好んで買うようになった。数年前の自分では信じられない進歩だ。
次に、ゆとりのある丁寧な暮らしを目指すようになった。
数年前までは、時間が少しでもあれば、友人に連絡をとって遊んだり、出掛けたり、ミーティングをいくつも入れていた。なにもしない時間を作るまいとわざと予定を詰め込んで、充実感を得ようとしていたのだが、それにもいつか限界が訪れることを学んだ。週に最低でも1日は家でゆっくりする日を作り、勉強をしてもよし、読書をしても映画を観ても、好きなものを食べても、トレーニングして筋肉を愛でてもよし(ちなみにこれは私の隠れ趣味です)。いつかがんばらなきゃいけないときにエネルギーを貯めておく充電の日を設ける。そんな時間を設けることによって、自己嫌悪に陥ることも少なくなった。

なんでこんなことを言い始めたかというと、いつも通りテスト前の現実逃避と、環境が変わり、新しい人たちに出会ってから2年が経とうとしているからだ。

周りの人が私に影響を与えることは多い。

私の彼はムスリムなのだが、ムスリム、イスラム教徒といえば、「豚肉やアルコールは食べてはいけない」「1日5回の礼拝」「女性はヒジャブを着用する」などなど、コーランに書かれた教えを忠実に守っているイメージ。
イスラム教徒と結婚するには、ムスリムになることが必要なのだが、もちろん、宗教に属するかどうかは個人の自由だから、向こうが強要してくることは決してないし、無宗教から宗教を属するのは大きな決断だから、色々試して決めればいいよ、と言われている。

彼の話のなかで、面白いなと思ったのが、

「自分たち人間に優しさとか善悪の区別を教えてくれたのは、宗教。その宗教の神様に感謝しないでどうするの」

という考え方だ。
自分に優しさを教えてくれたのは、紛れもなく私の家族や周りの人たちだし、その人たちに優しさを教えたのは、その人の家族や周りの人。そうやって辿っていくと、むか~しむかしに宗教という信仰対象の存在の誕生によって人々の行いの善悪が判断されるようになった。のだそう。
宗教を信仰してるのか、神を信仰してるのか分からなくなってきたな。
まあいいや。
とりあえず、感謝の対象が周りの人や先祖だけじゃなくて神様もだと思ってるよ、ってことらしい。
納得。

でも、待ってくれ、私はラーメン食べたらトロットロの厚切りチャーシューも一緒に食べたいし、大好物の麻婆茄子や餃子の挽き肉が豚肉なのはそれが合うからだし、実家に帰ったらママの作ったおいしいとんかつが食べたいし、料理酒を入れたらお肉が柔らかくなって、臭みをなくす役割があることなど議論の余地もないくらいお酒は万能調味料である。

ヒィ。

でもさでもさ、1日に5回も礼拝できなかったりすることもあるじゃない。私と一緒にいて礼拝してるとこみたことないし、私がムスリムになっても毎朝5時に起きられる気もしない。今でさえ少し罪悪感あるのに、教えが重荷になりそう…
っていったら、罪悪感感じる必要は全くないし、もし罪悪感を感じるのであれば、それは良い方向に進もう、いい人になろうとしてる過程の途中ってことだよ、と言われた。

ハア。

なんか宗教勧誘受けてる気分になってきた。
本人はその気がないのはすごく分かるんだけど、私からみた彼に約1年半たまりに溜まったバイアスがかかりすぎちゃって、第三者的な視点を失いつつある。

ただ面白かったから共有の話なんだけど。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?