不登校の体験者さんに学ぶ
あの手この手を使ってももう無理だった人が、私の身の回りには何人かいる。
ある方のお嬢さんは、不登校からそのまま引きこもり、家事手伝いとして自宅にいるとのこと。
『今はいいけど、私が死んだらどうなるのかしらね』そのお母さんは自重気味に話した。
不登校になって、心理士さんや精神科、ありとあらゆる受診や手立てを打っていったけど、一歩も家から出なかったとのこと。『結局親が何をやっても、結果は一緒よ』
我が家もあの手この手で回復を支援してきたが、所詮、誰かの手を全面的に借りる事が前提のプランで、私たちだけでどうこうできる範囲はすでに超えている。
もしかしたら、このまま何かをしても、何もしなくても結果は一緒なのかもしれない。
不登校支援の「専門家」は、『見守りましょう』『ゆっくり休ませましょう』異口同音にそう言う。
残念だけど、その言葉通りに動くときの方が、状況はいつもおかしくなって行くのだ。
学校に行けない、身体の動かない辛さもどかしさが、息子をゲームに追いやる。なぜそう言えるか?学校にたどり着きさえすれば、教室にはすっと入っていけるから。そして学校にとても行けなくなった直後の、本人の弁『今のままで大丈夫なのか、不安でたまらないんだ。ゲームは簡単に達成できて、自分はこれで大丈夫って思える仕掛けがいくつもある。そっちに逃げていれば、不安を感じずにすむ。精神を押さえつけてるんだ』『でもゲームを終えた後、押さえつけてた精神が吹き出してくるんだよな』
とどのつまり、一歩間違えば、今目の前で引きこもりまっしぐらになっていく我が息子を、ただ見守る、と言うのは、目の前で衰弱死して行こうとする子どもに食事も与えずただ見殺しにして行くのとさして変わらないのではないかとすらも思う。
本人に必要なのが、栄養、か社会的栄養なのか、と言う違いなだけで。
そもそも人は、少なくともしんどくてたまらない時に出来ることは、自分が本当にやりたい事だけだ。そのやりたいことすら、まともな集中力で取り組めなくなってくると息子は完全に、ゲーム三昧。不登校の集まりみたいになっているオンライン上の場で集い、いかに親の目を盗んでゲームに興じるかと言う方向へ関心がシフトしていく。残念だけど顔つきも時々大きく変貌している。漫画の中で、いかにもゲームしか頭にないキモキャラさんの風貌そのものになっていることもよくある。学校のリハビリが始まった時は、あんなに格好良かったのに、同じ人間がこうも変わりうるということに、衝撃を感じるほどだ。
さりとて、頼りにしていた親族の、悲嘆に暮れている時間まで、私たちの都合で奪いたくはない。彼らが次に向けて動き出す時、息子がわずかでも足枷になりかねない状況だけは避けたい。そしてまたもや行き詰まることとなった今、本人はとうとう『学校を辞める』と言い出した。
それはそれで一つの選択肢だと思う。頑張り続ける事が辛くなるほど長引いてきた今、本人にとっては肩の荷を下ろしたくて仕方がないのかもしれない。その気持ちは分かる。
同時に、今真っ暗闇に見えるトンネルの中で、方向性が見えなくなった状況に疲れて思わず口走った言葉なら、それを鵜呑みにして動くわけにもいかない。
そう考える今、改めていろんな人の話を聞いている。
ある人は中学高校と全く学校に行かなかったが、文系最高峰と呼ばれる大学に入学、今は某有名企業から不登校について発信する立場にいる。
彼女はなんと言うだろう?
今日は彼女と話してみる予定。
この場をご覧になってくださってありがとうございます。サポートして下さったお金は全て、不登校からのゲーム依存への進行予防や、回復のための社会支援に大切に使わせていただきます。(使途を決める際に、記事を読んでくださっている方々のご意向をお伺いするノートを作成します)