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読書メモ「ザ・メンタルモデル」

自分のためのメモなので極めて簡易な走り書き。
ズバリ、聖書の愛、福音理解のことだ、と受け取った。

本書によると、人には「あるはずのものがない」痛みがあるという。その「あるはずのもの」とは、「無条件の愛」と「つながり」だという。※1
この「あるはずのもの」がないことで、不安な感情が生じ、痛みが生じる、と。その痛みを分離するために、「克服」か「逃避」をする、と。 ※2

ここまでの内容を、聖書に置き換えてみよう。
「あるはずのもの」とは、パスカルが言う「神のかたち」のこと、創造主なる神の無条件の愛のことだろう。 ※1

パスカルは言う、「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものよっては埋めることができない。」

http://wwwd.pikara.ne.jp/mikamegrace/page/shinbun20.htm

創造主なる神がつくった最初の人間アダム(Adam)とエバ(Eve イブ)は蛇にそそのかされ、神からの唯一の掟を破ってしまった。善悪の知識の木の実を食べてしまったのだ。このことによって人間の中に罪の性質が入り込み、原罪(ハマルティア、「的外れ」の意)となった。
http://theologie.weblike.jp/jump2%20Theologie2000b.htm

その時に人間に現れた態度が「逃避」「自己防衛」「責任転嫁」だ。※2

人の罪の問題、堕落した人間の姿
人間は蛇(サタン)に欺かれ、神に対して不信感を持ち、罪を犯し、神との交わりを失った(創世記3:1~7)。もはや、いのちの息を受けることはできなくなった。神の支えを失った人間は、自分を守ろうとして、いちじくの葉で腰をおおい、神の顔を避けて身を隠し、責任を問われるとそれを他に転嫁した(創世記3:7~13)。このような自己防衛と逃避と責任転嫁の姿勢が神との交わりを失わせ、そこから来るいのちの息の枯渇が、人間同士の交わりを損なわせ、世界を管理する力を人間から奪い去った[10]。

https://www.christiantoday.co.jp/articles/14721/20141207/hataraku-yorokobi-8.htm


人は、心の内にある空洞に不安を感じる。
しかし、その空洞は創造主なる神の愛でもってのみ、満たすことができる。他のものでは決して満たすことができない。かたちが異なるからだ。
しかし人は、なんとか自力で、または他人の力だけで解決しようとする。哲学においては、創造主なる神の存在を持ち出すことは禁じ手だ。全知全能で無敵過ぎると、人は自分の頭で考えることを放棄してしまう、と。

しかし、そろそろ人間の力を超えたところにある創造主の存在、思い、計画を認めようではないか。

今日も、神はあなたの心に、「あなたは、どこにいるのか。」と語り続けておられるのです。そのために、神はご自身のひとり子イエス・キリストを人間の罪の身代わりに十字架につけて罰しなさったのです。この救い主イエス・キリストは、死後三日目によみがえられ、今も生きておられる御方なのです。どうか、神の愛を受け入れ、主イエス・キリストを信じてあなたの心が平安と喜びと希望で満たされたものとなりますように。

https://blog.goo.ne.jp/goo1639/e/053986a4beccf8713a8943263ff5c0d0

パスカルも言うように、信仰に近づくためには「理性を行使」しなければならない。しかもその上で、「理性を超えるものが無限にある」ことを認め、心で信仰を受け入れることが必要である。なぜなら「神を感じるのは心情であって理性ではない。信仰とはそのようなものである」からだ。

http://www.nagasaki-gaigo.ac.jp/toguchi/works/tog_essai/uzushio/pari.htm

創造主なる神が、他でもない私、あなたのために天から地に、人のかたちをとって降りてきてくださったのだ。この方がイエス・キリスト。この方は自らの命を十字架の刑にかけた。そして死なれた。しかし3日目に蘇り、使徒や弟子たちの前に復活して現れた。そしてまた天に昇り、今もまだ生きておられる。

理性では受け入れきれない多くの疑問があることだろう。
神が人になった?
死人が復活?
2000年前の出来事が私のため?
 
これらは決して理性では理解できない。
理性を超えるものを、心で信じる、信仰の領域だ。
頭で考える必要はない。
あなたの心の中にある空洞を、満たしてください、と創造主なる神に祈り求めるだけでいい。
そうすれば、無条件の愛でもって、無制限に愛してくださる。


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