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言葉を消えるまで食べると、「語り」になる。

「語り」の三訓。
・喉の空気の通り道を全身で意識化する
・糞や尿になるまで毎日やる
・裏方をきっちりやる

『犬王』と『平家物語』に見る、二つの自由。

▼昨日、『犬王』を観に行った後、友達と合流して飲んだ。
こないだの「あわい」公演でやった『古事記』の感想をもらい、「自唱は難しい」という話になった。

「自唱」は、自分で言葉を朗唱しながら動くことだ。
声のもつ力を体にため、空間運動に変える。
人の朗唱に合わせて踊っているわけではなく、演者から無言の語りが発せられる。

自唱すると、声と体に力が分散してしまう。
さらに自分だけでなく人も動くので、力の見えどころを見つけるのは、実際にとても難しかった。

結局のところ、声を出す回路と、動く回路を二つもち、分散させないでそのまま二つの力を保つことで解決した。その部分は評価された。

けれど、他の演者の「無言の語り」に対峙できる朗唱だったか、そこまでの作品作りを他の演者たちと共有できたかと問われると、届かなかったものも多い。

「犬王」も、謡い、舞う。
謡いと舞いは、二つで一つ。

犬王は、異形の体で生まれた。
犬王の体への呪いが解放されるたびに、彼は変容していく。

わたしが観たのは、変容よりも、呪いのほう。
言葉が体を呪う方法は、食べ物が体を祝う方法と同じだ。

バナナを食べてしまえば、もう二度と、そのバナナの原形を体から取り出すことはできない。
バナナの物質体は糞になり、バナナ独自の意識体は尿になり、生命成分だけが体の無意識部分に溶け込んでいく。
だからわたしたちは、バナナになることもなく、バナナの芽を出すこともなく、バナナに祝われる。

しかし言葉で、そこまでの力を持つ者は少ない。
やるやる詐欺じゃん。政治家の公約も、三日坊主も、糞にも尿にも体にもなれず、ゴミになる。
三日もやればいいほうで、「明日からやる」はたいがい口だけに終わる。

その時だけは、その気。そう、本気なのよ。
本気なのに、体には結びつけられていない。

感情のほうが、結びつきは強い。不安も恐れも喜びも、簡単に動作や表情に
でる。

どうやったら、異形なほどの呪いを、体にかけられるのか。

言葉が糞になり、尿になり、
金銀になり、土になり、水になり、
ひいては体になり、「無言の語り」になるまで、生命成分を溶け込ませることができるのか。

オイリュトミーの技法としては明快で、それぞれの母声、父声の空気の通り道を全身で意識化することが、まず挙げられる。

もう一つは、毎日食うこと。
落語家が同じ演目を何十年もやるように、何十回も何百回も食う。
琵琶法師の『平家物語』のように。
稗田阿禮の『古事記』のように。

一回で覚える、数回で上手にできる人もいるかもしれない。
でも、やっぱり毎日食べて、糞や尿になり始めると、そっちがおそらく本当の「語り」だ。

もっと大切なことは、裏方をやることだ。
最初の五人の自主公演は、これができていなかった。

裏方は、掃除をしたり、衣装をたたんだり、舞台で使う道具を覚えたり、何より礼儀を身につけること。

小さな自主公演でさえ、どれだけ多くの人に助けられているか、裏方をやらない限り、身には沁みない。

裏方業は、「受付だから」「照明さんだから」「舞台監督だから」という役割や、これをやり遂げる、という意志の力だけでは割り切れない、無形の力になる。

体が音になる、言葉になる。
作品ではそこが見えるし、その技術が問われる。
その土台には、「誰にでもなれる」「なんでもやれる」という裏方の力がある。

そこでまとめたのが、「語り」の三訓。
・喉の空気の通り道を全身で意識化する
・糞や尿になるまで毎日やる
・裏方をきっちりやる

▼ちょっと待って。『犬王』は、もっと自由だ。
伝統にとらわれず、「俺たちがそこにいる」という刻印を鮮やかに刻みつけようとする。(画像は©️2021 “INU-OH” Film Partners)

もう一つのアニメーション『平家物語』は、まったく異なる。
ひたすら透明になっていこうとすることで、自由を得る。

©︎平家物語製作委員会

鮮やかな自由と、透明な自由。同じ琵琶なのに、こうも違う。

透明になるとは、外から見える自分と、内から見える自分が、等しくなることだ。

完全に等しくなると、おそらく肉体は消えてしまう。
個別の体験をする必要がなくなり、感覚器官と知覚器官が、肉体の可視化を維持する必要がなくなるからだろう。

その完全なる統合は、肉体の死をもってなされる。

しかし今は、完全なる統合を目指すことではなく、個別化のプロセスで、体を解放し、見失った自分を拾い集める段階なんだと思う。

ディファレンシエーションとインテグレーション。微分と、積分。
ボディートークでは、両方合わせてインディビジュエーションと呼ぶ。

もしも無意識領域に自分を見失ったまま死んだら、またいつか、肉体を持って生まれてくるんだろう。

同じ琵琶がかき鳴らす、鮮やかな自由と、透明な自由。

どっちの自由も、環境に説明される自己を解放する。
どっちの自由も、身体の習慣に守られ支配される自己を解放する。
どっちの自由も、時間とともに滅びていく自己を解放する。

大きな時代の流れは、透明な自由のほうに向いているかな。
透明な自由も、そのプロセスは三つのやり方に集約できる。

環境。外界における無意識行動や習慣を意識化すること。
身体。リリースすること。ゆるめること。
時間。瞑想し、内界に入ること。

こうしたことを追求していく日々を過ごせたら幸せだ。

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