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生き残ることの絶望と、おそらくある希望と

イラク人質事件から20年が経った。昔のことを思い出すことがあったので、書く。


事件後、悪夢を見るようになり、また顔は誰からでも覚えられるようになり、外に出ると多くの人から声をかけられて「死ねよ、ガキ」「帰ってこなかったらよかったのに」と言われたり、「今井さん、素晴らしい活動をしていますね」と言われたりした。 僕はどちらの反応もしんどかったように思う。

罵声を浴びることの方が多かったのだが、褒められるようなことも別にしていない、ただ拘束されただけだったし、イラクの子どもたちのためにできることをしようということはあったが、入国直後に捕まったため、高遠さんとかとは違い、何もできていないただの18歳の自分だったと思う。それでも、多くの方が自分のために動いてくださったことについては今でも感謝しているし、また外務省や北海道庁など官僚の方で動いてくださった方が多くいたことにも感謝している。

ただ、あの時の自己責任の言葉、また自作自演など様々なメディアからの誤報は今でも忘れることはない。自分が30代になってから始めて生き残ってきてよかったと思えるようになってきたが、事件後から4〜5年のPTSDやパニック、うつ的な状態など陥ってきて、そこまで18歳の今井紀明を追い詰める国の政治家の言葉や社会とはなんだったんだろうか?と今でもよく思う。そこに対する怒りは今でも忘れることはない。あの時、世界線的に違っていたら、自分は今でも打ちひしがれていたように思うし、今この時点で生き残ってはいなかったように思う。

生き残ったのは、単純に「死ぬのが怖かった」からだと思う。何度かこの世から消え去ることを取り組んでみたが、しかしそれは怖くてできなかった。結果的に生き残ったのだが、当時は生き残ることは絶望とか地獄というような言葉では表せないぐらいの絶望的な状況だったことを覚えている。

グリ下やトー横など自分が19歳だったら行っていたかもしれない、とも思う。行かなかったとしても、OD(オーバードーズ)や薬物など何かしらに手を出していたかもしれない、とも思うときがある。生きることに抵抗があったから、同じように語れる人をSNSで見つけて話していて、話していて友達になっていたようにも思うから。

時間が嫌いだった

当時の僕は、とにかく時間を憎んだ。顔を覚えられ続けて声をかけられることが事件から何年経っても続いたからだ。事件から数年間、自分の過去の経験は語りたくない時間が続いていたので、そのことについては触れたくない時期が続いていたのだが、どこに行っても

「あの時の今井さんですよね?」

と声をかけられた。冷や汗をかく。なんとかうまく答えようと頑張る。それでも、表情が固くなり、話せないこともあった。特に大学に入学後の1〜2年は大学で誰かに声をかけられても、固まってしまうこともあったし、実際に周りからは「のりのことをなんか言っているやつがいるんだけど」と同じクラスの人に言われたりして、授業に参加したくもなくなってしまったこともあった。

「いつになったら、今井紀明を消すことができるのだろう?」

と思ったが、時間が過ぎ去っても、どこでも言われたのだった。だから、時間をとにかく憎んだ。自分がリセットするためには時間が早く過ぎ去って忘れ去られたいという現実的ではない願望を持ち、とにかく寝た。大学にも行かず、実際にはアルバイトだけには行って(お金が必要だった)あとは家で1人で過ごすことが多くなった。寝る、カーテンを閉めて寝る。これが一番だった。気が楽だった。

寝ることは逃避だということは頭でもわかっていた。何かしないといけない。でも、誰とも話したくない。誰も自分のことを理解してくれる人はいない。そう思っていたことを強く覚えている。

国民の半分近い人に否定された人間の気持ちは誰がわかるんだよ。

やり場のない怒りを抱えて、ひとりで過ごす時間が多かったように思う。時には、そういう感情もあって、ボォーと踏切を見つめていて、飛び出したいと思うこともあった。住んでいたアパートのすぐ前に電車が通る踏切があったからだ。

友人たちのおかげで僕の場合は少しずつ人と話せるようになったが、

この時はもう過ごす時間が本当に嫌いだった。時間が嫌い、ということは生きていたくない、ということに直結する。今思い返すと、それもあって生きたくないという感情に繋がっていたんだと思う。

少し話は変わるが、今でも人前で顔を出すこと、特にメディアに出ることは別に好きではない。僕の場合、知らない人に声をかけられるのは前述した通り、いい体験ではないことが多かったからだ。

それでも、最近は非営利組織としての信頼性を上げていこうと思うこと、また子どもたちの現状を語る立場として記者会見やメディアで話すことも増えてきた。これも役割だと思って自分としては出ている。

折れてしまった心

僕の心はあの時、折れていなかった。何か継続してNGOのことでも動けないか、と思っていたが、時間が経つとポキッと折れた。力が入らない、動く気力もなくなっていく。トラウマや鬱も関係していると思うが、身体に力が入らない。何もやりたくなくなってしまった。

平和学を学ぶ、国際協力の道に何か進めるのではないか、海外の大学へも行こう。

そうした高校時代考えていた方向性は全て消え去り、無になった。友人たちの支えもあって自分を取り戻していったが、何をすればいいのだろう?となって、大阪の商社に入社した。

その時に高校時代の自分の考えを少しずつ取り戻し始めてきたと思っている。それは

子どもたちの不条理な環境を変えたい

という最初に思った心だ。取り戻すまでに至った時間は5年。紆余曲折経て、今起業して多くの方に支えられて非営利組織の経営ができているのはありがたいことだが、この5年はどこにいったんだろう、と思う時がある。

否定、これはとんでもない力だと思う。僕もオンラインでもリアルでも子どもたちや若者たちと関わるときに気をつけているが、存在自体の否定というのは人の力を奪う。虐待にしろ、頭ごなしに否定することも含めて、否定には多くの力がある。心や大切にしているものをぶち壊す力だ。

そうすることで、自分が思っていた方向性を壊してしまう恐ろしさをこの時身をもって体験していた。だから、僕は否定せずに関わる、ということを子どもたちやユース(13歳〜25歳)と関わる時に大切にしているのだと自分で認識している。

生き残ることの絶望と、おそらくある希望と

あの事件以降、人に「生きて」とは言えなくなってしまった。

世間でいう虐待、それは報道の中で言葉としてイメージされるものかもしれない。「大変だな」と。でも、大変なんかじゃない。そこに、時間や空気や暴力や、ご飯が出されないことや、お金を取られることや相談しても相手にされないことも含まれていて、大変なんかじゃない、絶望とか、それを超えるものが一つ一つあったりする。

それを簡単に「乗り越えられるもの」とか思ってはいけないと思うし、そこにお金がない生活が加わったりすると(これは富裕層でもあり得る、ネグレクトなどでも十分にあるのだ)、衣食住が脅かされる。子どもたちや若者たちにとって、これが幼少期から続いた時には苦しいだけで表現できるものではないのだ。

だから、僕も話している時に「死にたい」と言われても、「生きて」とは言わない。その気持ちを受け入れようと思うし、言葉をまずは聞きたいと思う。

僕は運が良く家族に支えられたり、様々な方にお世話になった。だからこそ、社会復帰もできた。お金もなかったし、人の縁もない土地からだったが大阪で起業もして13期目になった。ありがたいことに個人の寄付者も全体で4000人以上、法人のサポーター企業も120社以上になった。国ができていない、子どもたちのセーフティネットをオンラインや繁華街で作るようにもなってきた。自分1人ではできないことで、多くのスタッフや寄付者さんがいるからこそ、今動けているし、ひとりひとりの力で公共を作っていることは今の日本にとって必要なのではないかと思って動いている。

生き残る、これができたら、もしかしたら希望があるかもしれない。

それぐらいしか、僕には言えない。「生きて」なんか言わない。僕の場合は、「生き残って30代半ばになって、やっと生き残ってよかった」ぐらいしか言えない。

でも、それでいいんだと思う。

今自分ができることを

イラク人質事件から20年も経った。

ありがたいことに生き残っている。

昨日、毎日新聞さんに掲載していただいてから、なぜか過去のことのことを思い出して、今書いている。NPOも多くの方に支えられ、本当にありがたい限りだ。まだまだ、子どもたちのセーフティネットをオンラインでも繁華街でも広げていきたいと思う。

逆境もある。相談が増えるたびに財務的に苦しくなることはある。食糧支援も20万食を超えて、給付支援も7500万円を超えた。

それでも、常にやれるだけやってみようと思って日々自分は動いていきたい。非営利組織ができることは国や株式会社ができていない力を発揮することだと思っているし、民主主義を根付かせる土壌を作る力があると思っている。今日も明日もできることをやっていこう。そう思いながら、今日も生き残る。


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