広島・ヒロシマそして、原爆について極私的な祈りのようなもの

〇〇   様

突然このような不躾ともいえる私の文章を送ってしまい、失礼致します。

誰にも伝えることができない、でも誰かに伝えたい、想いがあります。
これは私のちょっとした個人史と祈り、のようなものです。
できるだけ、簡潔に言葉を記していきたいとと思います。
もし、お付き合い頂ければ、幸いです。

私は、今から42年前に広島市へ父の転勤により、移り住むことになりました。父と母、それから弟と妹。5人家族です。
それまで私の家系は広島とは、えんもゆかりもありませんでした。
それから小学校を卒業するまで、6年間ほど広島の地で過ごすことになります。

私はとても想像や妄想をすることが好きな子供でした。
学校の図書室が一番好きな場所で、よく本を読んでいました。
一人で過ごすことが好きで、学校の行き帰りには色んな想像や妄想を膨らまませながら帰ったり、本を読みながら歩いて帰ったりした子供でした。
友だちと色んな場所でサッカーや野球をして遊ぶことも大好きでした。
ファミコンも大好きで自分の家や友達の家で遊ぶことが大好きでした。
そんなごく普通の子供でした。

広島の小学校はとても土地柄もあり、原爆についての教育は熱心でした。
授業ではもちろん、野外授業や泊りがけの遠足なども、原爆との関わりを事前に調べてグループ発表させられるなど、細やかな教育がありました。

特に定期的に開催される体育館での上映会はとても衝撃を伴うものでした。「はだしのゲン」は何度観たかはっきり覚えていませんが、何度も観た記憶があります。漫画も読みました。
それから実写の映画も観させられました。
にんげんをかえせ。タイトルだったかは記憶は朧気です。
女性の低い声で淡々としたナレーションと共に、実際に被害にあった映像が、動く映像が真っ暗の中に浮かぶ大きなスクリーンに、それは映し出されました。そこは体育館ではなく、別の何かに変化していき、私はおそろしい底無しの渦中に引きずり込まれた、そんな感覚になったのを憶えています。
隣の子は頭を抱えてうずくまり、あちこちではすすり泣く声が聞こえたり、場面によってはきゃぁ、と小さな悲声が聞こえたり、体育館の中は異様な雰囲気に包まれました。
そんな機会が何度あったかは定ではありませんが、とにかく、それは強烈な映像体験でした。

他にも公害に関する映画など沢山観る機会がありました。例えば水俣病やイタイイタイ病に関する映画とか。のたうちまわる人の姿はこれもまた、恐れることしかできない、強烈な印象を残しました。
公害ということも、強く認識させられました。

5年生から担任になった女性の先生は、今でも唯一、10代の頃にで出会った大人でフルネームを覚えている方です。今もご健在のようで、平和活動を熱心にやられているようでした。エスペラント語を話し、何かの役割を担ってらっしゃるよう方で、原爆をはじめ、戦争に対する教育はとても熱心にして頂きました。そこには日本の侵略国として事実についてもちゃんと教えてくださり、いつもはキリッとした凛々しい強い印象だった先生も、あの時は涙を流しながら、アジア各地で日本兵の行った蛮行も包み隠さず、写真を見せて教えてくれました。

素晴らしい教育だったと思います。今でも感謝しています。

その影響もあって、子供ながら原爆のことや戦争にまつわることを図書室で自発的に読んだりしました。それらは大したことのないものです。それでも子供にとっては、大きな学びでした。

一方、少し感受性が強かった私は、時々夢を見るようになりました。被爆する夢です。不思議と自分は被爆はせず、ただそれを傍観するような夢。あるいはピカが落ちるぞ、というギリギリ寸前で目覚める夢。被爆した友だちや家族が呻きながら歩くのをただ見守るだけだったり、ひたすら逃げ回る夢だったり。それは色々なバリエーションがありました。
子供の想像力はすごいものですね。夢想力とでもいうのでしょうか。

ある日、チェルノブイリ原発事故が起こりました。テレビで放送されているのを私は観ました。放射能が爆発した場所から空に舞い上がり、世界各地へと流れ及ぶ、そんな解説があった記憶があるのですが、あれは私が作り出した妄想でしょうか。

「放射能」という言葉に、私のこころは直ぐに反応しました。なぜなら、原爆は放射能そのものですよね。例え、かろうじて生き残ったとしても、個人差・時間差はあれど、やがて死に至る恐ろしいものとして、私は知っていましたから。直ぐに母にも不安を訴えましたが、笑ってダイジョウブヨとしか言われませんでした。他の家族も特に気にしていません。学校でさえもそうだったような気がします。

私は、何を皆は平然としているのだ、原爆だぞ、と心の中で不安に苛まれていました。あの先生に聞いたのかしら、とも今は思うけど、多分聞いてないないのだと思います。

でも、小学校の高学年といえど子供です。日常はまたいつもの日常に戻り、子供らしい日々に戻っていきました。

でも、夜だけはそうはしてくれませんでした。被爆する夢の頻度が圧倒的に増えたのです。時にはもはや、何か訳の分からない「大きな円形のような漆黒」が迫る夢にまで進化していきました。毎夜です。いつも夜中に目が覚めて、ああ、大丈夫だ。今なら、嫌いなあいつとも仲良くなれる。嫌いな宿題だって喜んでやる。嫌いな給食の献立だって食べてやる。そんな思いを抱いたことをよく憶えています。

今、思えばノイローゼのような状態だったのではないか、と思います。
ある種のトラウマとも言えるかもしれません。
でも、当時誰にも言えることはできませんでした。なぜか「言ってはいけない」とも思っていたような気がします。不思議なものだと、思います。

そういった経験は、やがて私に強い厭世観を与えることになりました。

人間は平等ではない。正義なんてない。神様なんていない。世界は平和ではない。どれだけ優しい罪のない人だって簡単に命を奪われる世界なんだ。
自分が中心と無意識に思っていた世界そのものが音を立てて崩れていく、そんな感覚をゾッとしながらも、私はどこかに落ちていきました。

それから、中学生になって直ぐに関東の地へ、また父の仕事で移り住むことになりました。
もう、そこには広島=原爆はありませんでした。教科書に載っているヒロシマは、ただの色んな歴史の一頁として授業では流れていきました。とても驚きました。どうして?あれだけの悲劇があったのに、もっと授業で教えないのか?ああ、ひょっとしたら、それは私のように小学校の頃に教わっているんだな、と思うようにしました。

でも、そうではないことに、やがては気づくことになるのですが。

成人した頃には、もはや悪夢は見なくなっていました。ヒロシマも8月6日の日は黙祷を捧げることは忘れなかったけど、思い出になっていきました。「忘れてはいけないこと」として心には在り続けました。
だから、その頃に大江健三郎の「ヒロシマ・ノート」を読んでみました。
私の知らないヒロシマがそこには描かれていていました。とても衝撃と深い悲しみを全身で感じたことを憶えています。そしてこの世の全てにまた、怒りを覚えました。

やはり長くなってしまいました。ここまでお付き合い頂いてありがたいです。もう少しだけお付き合いください。

私は「ヒロシマ」的な人間だと自負していますが、世間ではそうみなされないでしょう。ただ、6年間を広島で過ごしたに過ぎないのですから。

だから、誰かに聞いて欲しかったのです。どこかに書いておきたかったのですね。

今は広島や長崎の平和式典をどの国を招待した、しないなどのことで、世間は揺らいでいます。世界も揺れています。熱心な活動家や善なる人たちは、皆一様にイスラエルを呼ぶなとも声高に訴えています。

私はそれを見る度に胸が痛みます。

平和式典は誰をも拒むものではない、と強く思うからです。
原爆は人間の敗北だと思っています。そこには人種・宗教・国は関係ありません。全ての大枠を等しく、核兵器は奪います。人間の尊厳なんてありません。ただ、人間の敗北だけが在ると思っています。

その立脚点に立てば、広島・長崎それぞれ平和式典こそ、足並み揃え、例えそれが国として認められなくても、侵略国だとしても、虐殺を続ける国だとしても、私は拒むものではないと思います。

真の平和を願うのであれば、対話からしか始まりません。その対話の場として平和式典は存在できるはずです。世界唯一の被爆国としての役目があるはずです。それが今も尚苦しむ原爆症の方々含め、亡くなった名もなき人たちへの供養となるのではないでしょうか。

私には特定の信仰はありません。死ぬまで何か神に祈ることもないでしょう。でもヒロシマなるものだけは、強く胸に頂き、祈り続けることになるのだと思います。それはある種の信仰なのかもしれません。

名もなき私のような人間の些末な思いを綴った、長い文章でした。

最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。

ここで広島での被爆者には日本人以外もいた、長崎・第五福竜丸の被爆、それから沖縄本土戦はじめ、空襲など日本各地で亡くなった方々。あるいは日本の国家しての侵略加害性に言及しないのは、公平ではないというご批判もあるかもしれません。充分に承知の上です。これはあくまで個人史として主観的に書いたものだとご留意頂ければ幸いです。

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