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「アイとアイザワ-Magic hour-」第1話


「時間が無い。」そう聞こえた。

床の木目が、美しい蜜柑色の光で照らされていた。夕刻。
ぼやけて七色のモザイクアートに見えていたものが自室の本棚だと気がつくと、指先でつまんでいた眼鏡にやっと焦点が合った。

ぼくは目が悪い。度がキツイ眼鏡を牛乳瓶の底に例えるが、まさしくそれだ。フレームから不恰好にはみ出した分厚いレンズを、くたぶれたTシャツの裾でぬぐうと、よく女性にお褒め頂くシュッと形の整った鼻の上に眼鏡を乗せた。

「いつから寝てたっけ…」

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自問する様に言葉にしてみるが、まるで思い出せない。自分は下戸なので深酒して寝落ちしてしまった訳でも無いし、仕事中に寝落ちをしたなら机に突っ伏しているはずだ。眼鏡を手に持ったままお気に入りのこの椅子<柳宗理のバタフライスツール>に座っているという事は、きっといつものルーティンの途中だったのであろう。ぼくのルーティンは、仕事に集中できるまで物思いに耽る事。よくサボっているだけだと誤解されたが断じて違う。この時間が何よりも重要なのだ。わざわざ手に持ったままの眼鏡にも意味がある。居眠りをしようものなら、この眼鏡を落としてしまう。そうならない様に意識を保っていられるし、落ちたら落ちたでその物音で目が冴える。完璧な作戦だ。そうそう、アーティストのダリは口に絵筆をくわえて寝たらしい。天才という人種にはいつも驚かされる。

「しかし眼鏡は…落ちていない。」

きっと浅い眠りで眼鏡を持ったまま寝てしまったのだろう。となると気になるのは仕事の進捗である。「おーい。」と声を発した後に我に返った。誰を呼ぼうとしたのか、思い出せない。ここで、初めて部屋を見渡した。ぼくの本棚、そしてこの椅子は紛れもなく自分が愛用している椅子だ。最初の仕事で得た報酬を丸ごと注ぎ込んで買ったのだ、忘れるはずもない。しかし、その<仕事>が思い出せない。ぼくは、一体何の仕事をしているんだ?

頭の中は冷たくなり、その代わりに首筋がじんわりと熱くなった。書斎…そうここは書斎だ。書斎というからには、きっとぼくは会社勤めの仕事では無いのだろうな。もしかしたらダリの様な画家だったのかも知れない。まいった、本当に何も思い出せない。不安は恐怖へとギアチェンジをした。本棚の本を片っ端から開いてみる。本は、どれも読んだ記憶がある。それも丸ごと記憶する程に。何ページに何と書いてあるかまで明確に覚えている。ここまで記憶できる性質(たち)は、ちょっとした特技だ。

ここで単なる記憶喪失などでは無い事が分かった。欠落した記憶は部分的。身の回りの人の事、自分の仕事、そして自分の名前…。部屋のどこかに、自分の名前が書いたものがあるかも知れない。机の引き出しを順に開けて見た。

「待てよ…確かここに…。」

一番上の引き出しを引っこ抜き、その穴から机の天板をまさぐった。すると、何やら紙の手触りがする。「手紙だ。」取り出す前から、そう思った。不思議な感覚だった。手に触れた瞬間に、それが手紙だと分かった。それと同時に、先ほどの本と同様に内容まで鮮明に思い出せたのだ。内容はもちろんの事、短い手紙に3回も登場する「達」という字、全てに一本棒が足りなかった事や、その女性らしい柔らかな筆跡まで。手紙には「ショウへ」と書いてある。これが、きっとぼくの名前なのだろう。

手紙の内容はほとんど他愛もない話だった。どこにでも居そうな、恋人同士の手紙のやり取りだった。ショウの頬を涙がつたう。この女性の事は何も思い出せないのに、何故だか涙が溢れた。本当に心は微動だにしていないのに、どうやら身体が反応しているのだろう。記憶を司るものは、心や脳以外にもあるのかも知れない。身体に刻まれた記憶というものが、あるのかも知れない。そう思うと奇妙な合点があった。どうやらぼくは、自分が触れたものの記憶だけ再生できるらしい。必死に頭を捻って思い出そうとしても無理なのに、手で触れるとまるでテープレコーダーのスイッチがカチッと入る様に記憶が再生されるのだ。「触覚記憶能力…。」暫定的だが、ぼくはそう呼ぶ事にした。

手紙を裏返し、差出人の名前を見る。無論、すでに記憶は再生されているのだが、どうしてか眼でしっかりと確認したい気持ちがしたのだ。これもまた、ぼくの眼がそれを望んだのかも知れない。人柄を思わせる穏やかな筆跡で、それは小さく書かれていた。とても素敵な、懐かしい響きの名前。

蜜柑色に照らされた手紙をしばらく眺めていた。柳宗理の椅子に腰掛けて、牛乳瓶の様な眼鏡を撫でながら…。そこで、ある違和感を覚えた。この部屋には時計が無い。以前この部屋に置き時計があった事を、本棚に触れた時に思い出していた。これだけ雑多に物が置いてある書斎ならば、時計くらい他に転がっていても不思議は無いが見当たらない。ぼくは意識が戻る瞬間に「時間が無い。」と発していた。何か急いでやらなくてはいけない事でもあったのか?もしそうなら、尚更時計を近くに置いていて良いはず。まるで誰かが取り上げたかの様に、時計は部屋から消失していた。そもそも、眼が覚めてからどれくらい時間があったのだろうか?少なくとも40分か50分は経っているはずだが…。窓の外に目をやる。相変わらず蜜柑色の光が眩しい。太陽が沈む僅かな時間、最も美しい光を放つ魔法の時間。<マジックアワー>と呼ばれる時間だ。

「長すぎる…。」

そう、<マジックアワー>はほんの数十分間の出来事のはずなのだ。ぼくが目を覚ましてから4,50分経っているというのに、蜜柑色の光は一切変化していない。<マジックアワー>とは本来映画などの撮影で使われる専門用語なのだが、それこそ映画のセットの様に固定されたままだ。ぼくは気が遠くなるのを感じた。

「時間が無い…ってのは…まさか…。」

その部屋には、時間が存在して居なかったのだ。ぼくは、もう一度手紙を手に取った。何故だか分からないけれど、この女性に会わなくてはいけない、そう思った。差出人の名前は<アイ>。一刻も早く、彼女を見つけなくては。「一刻も早く」って言うのは、趣味の悪い冗談だけど。




<第2話に続く>


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