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帰省したら能登半島地震が来た

 新年明けましておめでとうございます。ひまひまじゃがいもです。

 金沢市内にある私の実家へ夫とともに帰省したら、能登半島地震が起きました。おかげさまで親族一同無事でしたが、いざという時なのに自分が恐怖のあまり、いかに何もできないかを思い知らされました。恥ずかしいことは承知のうえで、自身の反省や忘備録も兼ね、当日の様子を書き残したいと思います。

 今回の地震では多くの犠牲が出ており、地元の惨状に心が痛いです。地形が複雑なだけになかなか支援物資が届かないことや、断水や停電・道路の陥没や寸断などを見ると、地形が複雑がゆえに復旧するのに時間がかかるので、被災地に大きな影響が出ることが心配です。そして日本海側の厳しい寒さと雪。一刻も早くライフラインが復旧し、一人でも多くの命が救われるよう、私には祈ることしかできないのがとても悲しいです。

 各メディアでも取り上げられていますが、災害義援金・支援金の受付が始まっています。すでに支援いただいた皆様、本当にありがとうございました。石川県が実施している災害義援金やふるさと納税で地域を支援することができます。もしお気持ちをいただけるのであれば、下記リンクよりご支援を頂戴できれば幸いです。


※以下、地震や津波に関する記載があります。※
※読んでいてご気分を悪くされたら大変申し訳ございません。※




登場人物


筆者。動揺しやすくビビりな性格。金沢で生まれ育ち、現在関西在住。
過去の病気の影響から、大きな音や光の点滅に酔いやすい。
地震の経験は2018年の大阪北部地震以来(それも震度3~4程度)


家庭内で一番しっかりしている人。
石川県志賀町で生まれ、幼少期に金沢へ引っ越してきた。
2016年、出張中に熊本地震を経験。


スイッチが入るとしっかりする人。
金沢で生まれ育ったが、母の両親はともに羽咋市出身。
震度こそ小さいものの、在宅中に一人で揺られる経験が一番多い人。


あまり動じない性格。大阪出身。
2018年の大阪北部地震で震度6を経験。

2024/1/1 AM

昔とは違うお正月

 大みそか、私は母と夫と3人で夜更かししていたので10時過ぎに起床。母は朝シャン中、父がテレビでニューイヤー駅伝を観ていました。

 私が小さいころから毎年お正月は朝から父方の祖母の家で親戚たちと過ごしていました。ですが、コロナ禍でその習慣もなくなり、今年は特に祖母が骨折のため入院していることもあって、親族が集まることはありません。

 普段ならこれぐらいの時間には祖母の家を訪れ、おせちの準備をしているので、なんだか不思議な感じです。それは父も感じ取っていたようで「こんなゆっくりニューイヤー駅伝を見れるの久々だなぁ」と満足げ。

何気なく過ぎる日常

 しばらくして夫も起きてきました。新年のあいさつもそこそこに、母とともにお雑煮の準備を始めました。本来であればお昼からおせちを食べるのですが、今年は少し事情が異なりました。

 毎年私の実家では、母の友人が経営するレストランから洋風おせちを買い、スパークリングワインで乾杯して味わうのが恒例となっています。ですが、父は14時から入院中の祖母の面会に車で行くため、面会後帰宅するまでお酒が飲めません。そこで洋風おせちは夕方からにして、お昼はお雑煮とスーパーで買った伊達巻やかまぼこを食べようということになりました。

 お雑煮が出来上がり、家族4人で駅伝を見ながらたわいのない話をしていました。食事後、父は祖母の面会へ行きました。その間母が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、3人で1/2開催予定の高校サッカーの全国大会に出る星稜高校の話をして過ごしました。

2024/1/1 PM15:00~19:00

15:00~16:00 夫、早めのお風呂に

 父が面会を終えて帰宅した後、すぐにお風呂に入りました。お風呂から上がってきて、時刻は16時前。母がキッチンから顔を出して呼びかけます。
「お父さんビール飲むー?あ、夫くんか私、17:30ぐらいから乾杯したいから、お風呂入りまっし(入りなさい)」

何気なく私は夫にお風呂の順番を譲り、「ほな」と夫は2階のお風呂へ行きました。

 「お正月だから、お父さん夕方からビール飲んじゃうぞー!⤴」と楽しそうにキッチンからビールとグラスを持ってきた父。私は父に「まだお風呂入ってないから、付き合ってあげられないけど」とお茶で乾杯して、父はビールを一口飲みました。

16:07 小さな揺れ

リビングで父が最初に揺れに気づきました。
父「揺れとるな」 
私「え、地震?」
私「ほんとや、揺れとるかも。怖い……」

父「緊急地震速報鳴ったか?」
私「(お互いスマホを確認して)鳴っとらんよ」
父「そうやな。なら、また能登かな?なんもないといいけど」

キッチンから母が出てきました。
母「今揺れたー?」
父「揺れとったね」
母「能登かな?また被害が出んといいんやけど」

NHKにチャンネルを変える母。地震速報は珠洲市で震度5強。
母「また震度5?もう、やめt」

間髪入れずに、テレビと全員の携帯から緊急地震速報が鳴り出しました。

16:10 本震

緊急地震速報を見ながら「正月やぞ……」とつぶやく父。
母からも「また能登に被害が出てしまう…!」と悲しそうな声。
緊急地震速報の音に動揺して震える私。

母はキッチンで料理中だったので、(実家はIHコンロではありますが)火を切りに走りました。
近くに置いていたストーブ1台を切り、机の上の瓶ビールを床に置く父。
もうすでにパニックになり、おろおろして何もできない私。


父「来るぞ!」
リビングのテレビを押さえながら父が叫びました。

ガタン!と家が(記憶では)縦に大きく揺れました。
全員がこの瞬間に大きな揺れだと覚悟しました。
私は恐怖のあまり、こたつ机の横にうずくまることしかできませんでした。

リビングに2台ある石油ストーブのうちの1台を消し忘れたことに気づいた父。
焦って「ストーブストーブ!」と叫び、ストーブに近かった私がかろうじて消火ボタンを押しました。

消火ボタンを押した瞬間、次は横にぐらぐらと揺れはじめました。

その後も横に揺れる家。
築20年以上経つので、ギシギリと木がたわんでいるような音がします。
パリーン!と、時おり聞こえる食器か何かが割れる音。
揺れの中で、そういった音も恐怖心をあおります。


ガシャーンという大きな音とともに、「あっ、しまった、鏡や…」と両親が同時につぶやきました。
姿見が倒れて階段に当たり、一部が割れてしまいました。

母「大丈夫やよ、お母さんがおるからね」
母が立膝の姿勢で座っていて、右手で梁をおさえるようにしてバランスを取りながら、左手でうずくまる私の頭にクッションを置いて守ってくれました。

ここまでの時間があまりにも長く感じられました。

揺れが小さくなり始め、「止まれ…!止まれ…!」と念じ始める母。


揺れはいったん止まりました。

母「おさまったよ、もう大丈夫やよ」
母「あっ!夫くんお風呂にひとりやがいね!(ひとりでいるじゃないの)」
父「おっ、それはいかん」
立ち上がりすぐに行動する両親。

私「あ、ほんとだ……夫くんが……」
恐怖のあまり私は全身が震えてしまい、声もまともに出ませんでした。

16:12 揺れがおさまった

揺れが収まった後、両親がすぐ動き始めました。

父「夫くーん!大丈夫かー?」
父は階段の下から2階の浴室にいる夫に声を掛けました。

何らかの返事が聞こえたようで、父が私に指示を出します。
父「夫くんのご両親に無事を報告する連絡をしなさい」
私「はい…」

夫の携帯に義父からのLINEが入っていたので、震える手で"夫婦ともに無事です"と送信。

16:13 大津波警報の発令

 大きな揺れの後すぐ、大津波警報が発令されました。

 私はこの時恐怖の真っただ中だったので、個人的には大きな声ではっきりとすべきことを視聴者に伝えてくれるNHKの女性アナウンサーのアナウンスには好感が持てました。緊急時は考えるより先に体が動く方が良いと思うからです。

 実家は市街地で、決して海に近くはありませんが、高台ではありません。金沢港に大きな津波がくるなら高台に避難をしなくてはなりません。金沢港は家から遠いことは理解していますが、実際に訪れたことがないので、実家との距離感が分からず、避難しなくていいのか不安になりました。

 アナウンサーの方が伝えるように、3.11東日本大震災の記憶が思い起こされます。当時の津波の映像や波が引いた後の現地の様子は、何度もニュースで目にしました。もしかしたら金沢があの状態と同じになるのかと思うと恐怖でいっぱいになりました。

"3.11の時のような大きな津波が来たらどうしよう"
"避難したら、この家はどうなるの?"と恐怖心は増すばかりでした。

16:15 割れ物の一時的な処理

両親はまず、割れた姿見の処理を始めました。
倒れた鏡を起こして横向きにし、壁側に向けました。

家にある姿見はかなり大きなもので、枠を含めた縦の長さが1.8m近くあります。
それは、かつて母方の祖母が自宅で美容院をやっている時に、着物の着付部屋で使っていたものです。
思い入れのある大切なものでしたが、かなり大きいがゆえに置き場所に迷っていたのも事実。
危ないとわかっていながらも、普段は階段付近の壁に立てかけていました。


とっさに鏡のことが家族全員頭に浮かばなかった。
これは今回の地震で一番の反省点です。
一歩間違えれば鏡が階段に直撃・派手に割れて飛び散り、大惨事になるところでした。


母「こんな形で、この鏡とさよならせんなんのか……」
母にとっては思い入れのあるものなので、とても悲しそうでした。

私はいったんLINEの登録名を"無事です(普段の登録名)"に変えました。
LINEの安否確認サービスがあったので、ステータスを無事に変更しました。

16:18 再び緊急地震速報

情報が徐々に更新され、テレビには"志賀町 震度7"の文字が。

父がすぐ「お父さんの墓が……!」と反応しました。
今回震度7を記録した志賀町には、私の父方の祖父のお墓があるのです。

お墓のことを考える間もなく、再び緊急地震速報が流れます。

私「もうやめて……」

父「大丈夫、もうそろそろ大きい地震も収まってくるはずや」
半泣きの私に父が声を掛けます。

母「こういう時はまず頭を守りなさい」
クッションを渡されて頭に抱え、土下座みたいな姿勢になる私。

震度3程度の地震でしたが、また大きい揺れかと思い怖くなりました。

16:20 揺れが収まり、割れ物処理再開

揺れがおさまったので、両親は割れ物の処理を再開しました。
父がタオルを取りに行くついでに2階の夫の様子を見に行き、鏡が割れたことを説明したそうです。

大きな揺れの時、パリーンと何かが割れる音がしていました。
食器数枚と、リビングのテレビ台に置いていた花瓶、玄関の小窓に置いていたポプリ入りのガラスが、それぞれ落下して割れてました。
母がそれを処理し、割れ物があったところに掃除機をかけていました。

数名の友人から来ていた安否確認のLINEを返しました。
全員「高いところへ逃げてね!」「津波に気を付けてね!」とメッセージを送ってくれていました。
LINEした後に先ほど私が変えた登録名に気づいたようで、みんな「無事です、って書いてたね。ごめん。電池減ったら困るから、落ち着いたらでいいので返事ください」と追記していました。

16:28 夫が2階浴室から戻ってきた

夫が階段の上から、1階へ声を掛けたそうです。
父「鏡が飛び散っとるところにタオル敷いとるから、そこを避けて降りてくれるかな?」

しばらくして、トントンと軽快な音を立てて階段を降り、夫がリビングにやってきました。

夫「どうしたん?俺なら大丈夫やで」
顔面蒼白で顔をくしゃくしゃにして恐怖におびえている私に夫が声を掛けました。

安心して体の力が少し抜けました。
ひとまずは父から無事を聞いていたものの、夫がなんともないことを自分の目で確認できて、心からホッとしました。

今私が実家で娘として大切にされているのと同様に、夫もまた義両親の大切な息子です。
こんな時に帰省に連れてきてしまったばっかりに夫を危険な目に遭わせかねなかった、と少し自分を責めました。

16:30~16:50 小さな揺れはあるものの

 ひとしきり割れ物の処理が終わったので、家族全員でリビングに集まりました。今日はいったん石油ストーブの使用を中止することになり、エアコンの暖房をつけました。ひとまずは、金沢港の津波の大きさに注視して避難するかを見定めよう、ということに決まりました。

 父の勤務先から安否確認の電話がかかってきて、話しているのが聞こえてきます。「今のところ津波が理由での避難は考えていないけれど、大きな余震が来て金沢港に到達予定の津波予想水位が上がった場合、一番近い○○中学校に家族全員で避難します」と父が電話口で言いました。そこは私が卒業した中学校。こんな形で母校訪問か……と思う一方で、築年数がそれなりに経ってそうなので、耐震補強とかしているのか?と疑問が沸かないわけではありませんでした。

 その時に夫に聞いた話ですが、本震に揺られながら夫は「揺れが大きいから、これもしかしてどこかに避難する系かな?」と思ったそう。そこでお風呂から上がって着替えた後、余震に揺られながらも持参していた荷物を簡単にスーツケースにまとめてくれていたそう。本当に申し訳ない。

 電話を切った後、急に父がしょんぼりして言いました。
父「俺なんでお酒飲んでしまったんやろ……会社に"避難します!"とか言いながら、俺運転出来んがいや(出来ないじゃないか)」
私は運転免許を持っていないので、動けるのは両親と夫だけなのです。

母「うーん、お母さんが缶チューハイ飲んだんが(飲んだのが)12:30くらいやろ?」
私「多分そう、ニューイヤー駅伝中だったはずだからそれくらいの時間」
母「ほんなら、夫くんに第一運転者してもらうしかないねぇ。こう言っとる間に7時間経つはずやから、そんで夫くんが疲れたらお母さんと交代するわ。それで時間経てばお父さんも運転できるやろ?」

父「情けないな。夫くんおってくれて良かったわ」
夫「いえいえ、そんな」
母「ほんとやわ、良かったねえ~」

父「(でもなんかしょんぼり)」
母「しょんぼりしとっても仕方ないがいね(仕方ないじゃない)。2人も運転者おるし、もうそのまま開いとるビール全部飲んでしまいまっし(飲み切っちゃいなさいよ)」
父「うん……みんなすまん、これだけ飲むわ(´・ω・`)」
私「(謝って飲むのちょっとおもろい)」

17:00~18:00 ライフラインの確認

 このころになると、少しずつ現地の様子がライブカメラ等で確認できるようになりました。真っ先に心配になったのは輪島市の火災。時間が経つにつれて広範囲に延焼している様子で、火が早く消し止められますようにと祈るばかりでした。

 一方、父方にゆかりのある志賀町の情報があまり入ってきません。
 父が20代の頃に他界した父方の祖父。志賀町の状況が分からないのですが、震度7を記録しているくらいなので、お墓がどうなっているか心配です。私と夫はコロナ禍に結婚したため、まだ夫を連れてお墓参りにいけていなかったので、今年こそはと思っていた矢先でした。

 父が何度目かの勤務先からの電話を切った後、キッチンに行った母に呼びかけます。
父「お母さーん、水出るかー?」

「出るよー!どうしたん?」とキッチンから顔を出す母。
父「会社の○○さんが、金沢市の人やけど断水しとるって言っとったわ」
母「そうなん?ちょっと待っとってね……」
母「(水を出してみて)今のところきれいなお水でるけど」
父「水出んくなったら教えてくれるー?」
母「はーい」

私「今のうちに浄水ピッチャーに少しでも水入れといた方がいいかな?」
夫「そうやな、みんな水飲むやろうしな」
母「やかんに水入れたからこっちのIHヒーターで沸かすね~」とやかん片手にキッチンから戻ってきました。

18:00~19:00 情報収集

 この時は夫を始め、家族全員がリビングにいることや揺れがいったんおさまったことにより、私は震えも止まりすこし緊張がとけてきました。安心したせいか私の本来の性質が出てきてしまい、津波警報を伝えるテレビの大きな赤い文字や点滅に酔って吐き気を催してきました。

 夫に背中をさすってもらいながら水を飲みました。常に揺れている気がして怖くなり、少し泣き始めました。Twitter(現X)で見た「コップに水を入れて揺れていなければ、"地面も揺れていない"と思うといい」というコメントにはだいぶ助けられました。

 この時点で金沢港にくる津波の予想は90cm。
父はどうするか相当悩んでいたようです。結局津波の予測は90cmと80cmを行き来したままで、金沢市内は大きな余震がなかったので、避難はせず家にいることになりました。

 何かに気づいたように、父は私に帰りの電車のチケットは取ったのかを聞きました。実際まだだったので、ダメ元で翌日の指定席を購入しました。

2024/1/1 19:00以降

19:00~21:00 徐々に落ち着いてきた

 19時以降は多少食事を取りつつ、引き続き情報を確認する状態が続きました。これぐらいの時間になるとある程度自分の状況も落ち着いてくるので、友人からの安否確認LINEにゆっくり返事することができました。友人みんな心配してくれて、思いやりが心にしみてありがたかったです。

 20時か21時ごろ?一部のテレビ番組が放送再開しましたが、警報の画面や現地の状況の映像に私のようにつらくなる人がいると思ったので、再開してくれてよかったと思いました。L字の災害情報があれば情報を確認できるし、震度の大きい地震があれば都度ニュースキャスターの方の画面に切り替わりますし。私が警報の画面に完全にノックアウトしていたので、21時からはバラエティー番組を見ていました。

23:00~0:00 地震速報に騒然とする

 23時すぎの地震で、地震速報の震度に誤りがありました。
 家族全員で「揺れたか?」「また震度7?!」「今本当に揺れた?」と騒然としました。大人4人で揺れてないとくれば、すぐに誤報ではと結論付けました。案の定、本震の情報を誤って23時過ぎの地震に結び付けて発表してしまったよう。本当に安心しました。大きい地震の時に緊急地震速報が出ないよりも、小さな地震の時に大きな地震に備える方がよっぽどいいと思います。

 父は翌日、勤務先の被害状況確認に行かなければならなくなりました。家族全員に引き続き余震に気を付けることと、(緊急地震速報があれば勝手に起きるとはいえ)何かあれば起こしなさいと指示して23:30頃就寝。

1/2 一夜明けて

0:00~9:00 余震で寝るのが怖い

 私はなんだか寝るのが怖くて、母がテレビの深夜番組を見るのにダラダラ付き合いました。日付が変わってAM1:00頃でしょうか、何かの拍子にテレビの右下に出ていた大津波警報が津波警報に変わり、心から安堵したのを覚えています。

 結局AM1:30頃に寝たのですが、夜もたびたび余震で家が揺れました。家族全員寝室が2階なので、日中より揺れが感じやすく怖かったです。明け方に震度3程度の余震があり、怖くて夫にしがみついていました。夫は疲れていたのか爆睡していたのですが、私はほとんど眠れませんでした。

 日中もときおり余震に揺られながら、前日食べられなかったおせちを食べたり星稜高校のサッカーの試合を見たりして過ごしていました。金沢市内での震度は震度1~2になり、さすがに一晩揺られているとそれくらいの揺れは動揺せずにいられるようになりました。18時台のサンダーバードで関西へ戻ることになりました。前日父が取ってくれていた指定席の電車が、たまたま動いてくれたのでした。

10:00~18:00 度重なる余震への不安

 金沢駅に向かうために家を出る直前に、能登地方で震度5の地震がありました。放送中の番組が報道スタジオからのニュースに切り替わりました。赤色で大きく書かれた"震度5"の文字に、また動揺して吐き気が止まらなくなる私。

 父が金沢駅まで車で送ってくれることになりました。さみしがる母を見て、急に不安になり泣き始める私。
母「どうした~ん、お母さんなら大丈夫やよ。お母さん強いから💪(←本当に腕をこうやってた)」
母「それよりあんたたちが今から帰るまで気をつけんなんよ!(気をつけなきゃいけないよ)」
母を抱きしめ、気を付けてねとしか言えず、号泣する私。
母「夫くんもこんな娘やけどごめんね。よろしくね。これに懲りずにまた金沢来てね。」
夫「はい!また来ます!」

 車内では終始無言の私。能登半島で起こった被害や犠牲への悲しみと、震度は小さいとはいえ余震の絶えない地域に両親や祖母たちを置いていく不安で、ずっと泣いてしまいました。

18:00~22:00 関西へ帰る

 金沢駅の商業施設は全店舗休業の上でシャッターが閉められ、空いているのはコンビニだけ。改札内に至っては、コンビニすら休業していました。コンビニでは水の購入制限がかけられており、商品棚の一部は空っぽで"納品がない"との張り紙がありました。

 駅に行くまでになんとか涙を止めて、駅で父と別れました。昔から父は"見送られるのが嫌いだから、別れ際はササッとしたい"と話していて、笑顔で別れたいと思ったのですが、私が改めて父の顔を見ると泣いてしまいました。

父「あーあ、お前さん多分もうだめやな。(もう泣き止まないという意味)」
私「(泣き止みたかったのに、本当に止まらなくなった)」
父「夫くんごめんね、娘を頼むね」
夫「はい!」
私「お父さんも気を付けてね……」
父「うん、ほんなら元気でね」

帰りの電車の中でも終始すすり泣く私。
電車に乗ると眠くなって寝てしまう夫。
正反対の私たちを乗せてサンダーバードは関西へ向かったのでした。

 こんな感じで関西に帰ってきて、ホッとしたのもつかの間すぐに仕事始めとなりました。正直まだ大きな音に驚いたり、家の近くをトラックなどが通った時の小さな揺れにもビクッとしてしまいます。

 ニュースで見る能登の現状に心が痛む上に、両親や祖母を置いてさっさと関西に帰った自分もひどいと思うし、関西に来た以上何もできない自分にも腹立たしくて、いろんな感情が沸き上がってニュースを見ながら号泣してしまいます。自分は自分で今できることに集中すべきだと、頭ではわかってはいるのですが………

 わずかばかりですが、私も石川県が受付している災害義援金に送金しました。将来、志賀町にある父方の祖父のお墓に、夫とともに手を合わせに行きたいと思います。お墓が土台だけでも残っていますように。

 長いのに最後まで読んでくださり本当にありがとうございます。


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