正しさと正論を理解して活用できてからが大人の仲間入りができるってもんだぜ

正しさと正論って似て非なるものだと思うわけです。

正論って名の通り、正しい論なので正しいことではあるんです。
だから正解のように思えるけど伝え方や場所などで正しくないようになってしまう場合がある。

図書館戦争の有名な名言がありますよね。
正論は正しい、だが正論を武器にする奴は正しくない。

まさにその通りだと大人になると確かにいいい!ってくらい感じるわけですよ。
それくらいそう思わされる場面があるのですよ。

例えば職場であったのが、目標を達成しない営業マンがいまして。
彼は達成もしていないのに早い時間に帰るんです。
痺れを切らした上司が叱責をする。

ここまでは正しいと思うんです。
ただ大勢の前で叱責をすること。
声を荒げて脅すように言葉をぶつけること。
挙げ句の果てにはADHDなのかと、茶化して言って良いわけがない言葉を持ち出す始末。

側から見ていると彼のためにと言ってはいるが、自分のストレス発散をしているのではないかとすら思ってくる。

正論は正しいからぶつけるのが気持ちいい。
だって正しいから相手からの反撃がこない。
だから勝った気になれる。自分はまるで聖人君主のように正しい存在のように思える。
その麻薬に酔ってしまえば、「相手を公正させる」ことが目的なのに「怒ること」が目的にすり替わってしまう。

こうなると正しくないのだ。

プライベートでも似たような経験がある。
会社でもプライベートでも嫌なことが続いている友達がいた。
初めはかわいそうだからと思い、時間ができれば電話をして話を聞くようになった。

ただそういうことを繰り返すといつでも電話がかかってくるようになったり、
話を聞いてほしいからご飯に行こうという誘いがくる。

性格の悪いことを言うけれど、いつでも電話がくるのは嫌だし
ネガティブな人とご飯は行きたくないのだ。

ご飯に関してはたまにならいい。けれど何度も誘われるのは本当に困る。

だってネガティブに引き込まれてしまうからだ。
私は世の中の大半の人と同じく週5で働いている。
簡単な仕事ではない。しっかりと頭を使わないといけないような世の中にありふれた仕事だ。

だからこそベストコンディションでいたいのだ。
モチベーションで仕事をするのは三流だと思う。
左右されてしまう気持ちもわかるけれど。
でも、大人なんだから自分の機嫌は自分で取らないといけないし
そうでないことを社会は許してくれない。

だから心の状態はいつも健康でいたいのだ。
なのにも関わらず、いきなりネガティブな連絡がきたり
ご飯で何時間も週に2回しかないおやすみを消化されてしまえば維持ができないのだ。

せめて助けるときはこちらのタイミングでお願いしたい。
でも、その友達は言うのだ。
「しんどいのに、困っているのに助けないなんてひどくない?」

どうだろうか。
辛いと聞いてすぐに電話をして何時間も話を聞くのは優しくないのだろうか。
いつでも連絡をとってあげてご飯に行かないとひどいのだろうか。

困っている人がいたら助けるべき。
確かに正論だが、これも状況によらないだろうか。

というか助けるという行為は助ける側が決めるもので助けられる側が強要するものなのだろうか。

この二つの経験から思うのだ。
大人の定義は数あれど、きっとその中の一つは
正論と正しさの違いを理解して行使できることなのではと。

まぁ、偉人でもなければ天才でもないもんで。
この考えが正しいのかどうかは未来の私が教えてくれるだろうと
思いながら今日は好きなアニメでも見てすっきり眠ろうと思いまする。

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