日本はなぜ植民地化されなかったのか? 7.トーマ・スグラバー暗躍
■グラバーは、安政の開国直後の安政6年(1859)に、当時、東アジア最大の貿易会社であったジャーディン・マセソン商会に雇われて弱冠21歳で長崎にやってきたスコットランド人の商人です。当時、長崎にはジャーディン・マセソン商会の先任代理人がいましたが、2年後に中国へと転勤になったため、グラバーはその業務を引き継いで、23歳で「グラバー商会」を立ち上げ、独立しました。
グラバー商会では当初、茶や生糸の輸出を主に扱っていましたが、日本の幕末の動乱に目をつけ、薩摩藩などの倒幕派を支援し、武器や弾薬などを販売して明治維新の成立に大きな影響を与えました。
その他にも、慶応元年(1865)に、長崎港に面する大浦海岸通りに約500メートルのレールを敷き、客車をつけた蒸気機関車を日本で初めて走らせたことで、当時の日本人の度肝を抜いたというエピソードが残されています。
明治維新後も日本にとどまり、小菅修船場の建設や高島炭鉱の開発など、日本の近代化に尽力し、日本で73歳の生涯を閉じました。(抜粋)
●東インド会社の子会社として、ジャーディンマセソン商会は1832年に広州で設立されたイギリスの貿易商社でアヘン貿易などで大きな利益をあげた。SNSの表向きは当たり障りのない事しか書かれていない。要はアヘン戦争前に中国人を廃人になる事を知りつつ阿片をインドから輸入した。現存するコングロマリットである。その日本駐在員として来たのがトーマスグラバーです。父方にフリーメイスンのルートを持つ人で、ある意味、坂本龍馬はグラバーの密命を受けて日本国内の情勢を報告していた言わばスパイです。グラバーは開国前の日本で開国後にこの国で起こるであろう事を想定し人材育成、人脈をつくる事に暗躍する。それが長州藩と結託して後に長州ファイブ言われる5人の若者を開国前に蜜出国させてイギリスに留学させた。それは正に下関戦争年1862にイギリスの軍艦に載せ、費用は現在のお金で2億と言われている。
グラバーは表向きはお茶の栽培を日本、特に九州に広めた。絹織物を集めたが、有田焼などの陶器、美術品、工芸品などを輸出し莫大な利益をあげた。
その中で、日本人の知性や文化、工芸や地図、暦、武器の量など多くのデータを分析し本国に報告していたと思われる。宛先は、ジャーディンマセソンから東インド会社、フリーメイスン、ロスチャイルドと現在にも通じる影の世界を牛耳る者たちに伝えられた。これらの情報から清国や朝鮮とは、全く異なる対応を欧米に諸国に認知させたと思われる。
グラバーは日本には武器を売ることが最優先、その為にはマーケティングが必要で、それは坂本龍馬の仕事だった。そして、今後の日本がどうあるべきかは、グラバー邸の奥方の寝室の屋根裏の部屋で密会を重ねていた。ここは今も見学可能だ。
そして坂本龍馬は薩摩と長州の仲介役として同盟を結ばせ、グラバーは戦艦も、大砲も武器弾薬も売るのである。後の日本で最初の新橋〜横浜間のレールも蒸気機関車もグラバーの輸入品です。
余談だが、坂本龍馬はのちの海援隊の長となり京都で暗殺されるが、暗殺の指示はグラバーだと私は考える、実行役は陸援隊の長である。寺田屋事件の現場は狭く室内、内部の顔見知りの犯行であると推察する。
坂本龍馬はグラバーの裏を知り過ぎた男なんだと思う。
坂本龍馬と長州ファイブについては後ほど〜機会を見て。
そうそう、岩崎弥太郎は坂本龍馬の土佐頃の幼なじみ、グラバーに紹介したのは龍馬であろうと思う。
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