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初夏の頃(27)夏の終わり〜

初夏の頃(27)夏の終わり〜

夏休み最後の日は軽井沢最後の日だった。
彼女と私は素晴らしく濃密な時間を過ごした。
それは人生の中でも、とても充実して満足だった。
別れは別荘の玄関、抱きしめられれてキスして、受験!幸運を祈ってる。
ありがとう!お元気で、いつか又!
鉄扉の門を閉めて手を振った。
それが最後だった。

あとはベストを尽くして受験した。受験会場は大学の外だった。都内の大学は殆どロックアウトで入ることも出来無かった。入学式も別会場、そこにも学生デモは押し寄せた。オリエンテェーリングも外。授業もなくレポート提出のみの虚しい学生生活は毎日暇だった。その分、ギターを弾き、ソングライティングして、その暇な時に新宿西口フォークに参加したりした。
国立の大学に受かったのに学生仲間の友人を誰一人知らないというのも不思議だった。
音楽の方はそれなりに〜URCレコードに行ったり、同じ原宿のセントラルアパートのマンションのアート音楽出版や音楽舎に行ったりしてそれなりだった。1968年の都内の学生運動は機動隊との衝突やらそれは激化の一途を辿っていた。私はそれなりに自分の歌をレコーディングしたり恵まれた出会いで、何となく音楽シーンを歩き始めていた。大学は相変わらずで、ロックアウトと機動隊とのぶつかり合いは頂点に達していた。早稲田大学も法政やその周辺も不穏な状態だった。そして、翌年の1969年は〜全共闘安田講堂事件が6月に、それはベトナム反戦も含めて年末まで続いた。

学生街の街 御茶ノ水はカルチェラタンよろしく革命の嵐だった。
デモの度に、車は横倒しに火をつけられ、投石と放水と滅茶苦茶だった。

もう大学は機能していなかった。
私はそんな日本の状態を尻目にシンガーソングライターの道を歩んでいた。
アメリカ、ロサンゼルスでのレコーディング。
どんな女性とも関係は持たなかった。全く興味はなく、積極的なアプローチを軽く受け流していたので、アイツはホモ?ゲイ?かもと陰口もあった。

その年に軽井沢に行く事があり、彼女の別荘に行ってみた。
2年前のあの別荘は?跡形もなく消えていた。少なからずショックだった。
近所の人に尋ねてみたが、1967年の年末に不審火で全焼したそうで、放火らしいと、別荘地は住んでいる訳でも無いので、殆ど誰も目撃者などはいなかったそうだ。有るのは低い石を積み上げた石垣だけだった。
警察に行き少し詳細を聞き、消防署にも、そして、図書館に地元紙の閲覧を見て、少し解ったのは、誰もいなかった事、多くの貴重な絵画や美術品はあったがそれらは全て搬出された後で家屋敷以外の被害はなかったらしい。
どこかに無事でいてくれているだろう事は信じていたが、連絡するすべは何も無かった。考えてみれば、私が知っている名前さえも本名かどうかも分からない。ピアニストとして調べたことも無かった。
多分、ソウルメイトならそのうち逢える気がするし、生きてる事は僕には判る。

そして数年が過ぎて、レーベルを変わってイギリスロンドンでのレコーディング!スタジオミュージッシャンは誰もが一流で文句なく素晴らしかった。
アルバムのレコーディングが深夜まで続いて、やっと出口が見えてきた。
レコーディングが終わりトラックダウン、マスタリング、でも何となくアルバムとしても完成度が今ひとつ、曲順を入れ替えたりしたが、頭出しとエンディングに何かが足りないとディレクターが言い出して。
僕は疲れていたので任せることにした。
映画の始まりや導入部、プレリュードの様なプロローグのような音楽が欲しかった。それは映画のエンドロールの様なエンディングのサウンドがフェイドアウトしていく感じで。
翌日、聴かされたのは不思議な寂しさと憂いをたたえたピアノソロだった。
とても気に入った。少し深めにエコーを掛けて空気感をディープにした。
ケルティックなどこと無くゲール語のフレーズのような雰囲気があった。
エンディングも同じフレーズだけど展開と解決が面白かった。
通して聴くと見事にアルバムは完成していた。
自分のアルバムに花が添えられたようで嬉しかった。

素晴らしいアルバムが出来上がった!やっと終わった。
僕の人生の一つのターニングポイントだった。

スタッフに別れを告げてスタジオを後にしょうとすると、ディレクターが最後に入れたピアニストの人がお会いしたいと、来てるけど、どうする?

答えようと顔を上げると、そこには
彼女が笑って立っていた。3歳くらいの女の子が横に!

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