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表現するということ

 イラストを描き始めて1年くらいだけど、初めて1ケ月以上描かなかった。

 もともと、うまくなりたくて描き出したわけではなくて、枯渇した心の中をイラストを描くことで埋めていた。生きていればすぐに結果が出ないこともあれば、思い通りにならないことはいくらだってある。

 そんな無情さを感じているときに「心が感じたもの」をイラストにしておこすことで自分を落ち着ける。アートセラピー的な意味合いが大きかった。

 やっていれば、人に認めて欲しくなるような欲求が出てくる。自己承認欲求は誰にでもあり得る。

 先日はとある精神科医の方のコラムで「人間というのは自分にないものを持つ人へ妬むものである」という内容を読んで、安心した。

 「妬み」とか他者を認められない黒ーい自分の気持ちに気づいたときに、自分がとってもイヤになって引きこもってしまい、発言も何だか無力な自分を守るような、自己保身的な発言なんかしていて、あ、スゲーイヤなヤツじゃない?自分?みたいな、苦しい気持ちになったり。

 でも、それは人として当たり前のこと、そんなことをどこかのどなたかが肯定してくれたことは、ほんの少し楽になるものである。

 さて、では私は上手な人のイラストを見て、自分が劣等感を抱いて描きたくなくなっていたか。人から認められなくて腐っていたか?

 そんなことは1度も感じたことがない。

 もともと、自分は全く力が足らないことはよくわかっている、ということ、才能があるとも思っていないということ、あとはある意味、1年前より何かが満たされていて「表現したい」というエネルギーが欠如している。

 イラストに限らず「表現されるもの」には作者の生き様が宿る。「気」が乗り乗る、というか。その「気」があたたかければ、あたたかい「気」が、自己承認欲求が強ければ、焦りの「気」が宿る。

 どんな「気」が宿ってしまうかは、まあ、それは隠しようがない。ありのままが出てしまうだけ。

 人を感動させようと思って感動させることができるわけではないし、自分自身だって感動しようと思って感動しているわけではない。

 ただただ、何か「人の心の深み」に触れたときにこころは動く。

 さあ、こんな中途半端なキモチノジブンにイラストは描けるのかな。

 

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