『パプリカ』レビュー

藤津亮太さんが東急BEたまプラーザ校で開講している「レビューの書き方講座」に以前参加した時に、課題原稿として書いた、今敏監督のアニメ映画『パプリカ』のレビュー原稿です。藤津さんの指摘を受け、リライトした版のテキストを発掘したので、恥ずかしながら公開してみます。

想定媒体:A5判系アニメ誌(オトナアニメ,Febri,etc)

 今敏のデビューはアニメーターではなく漫画家としてであった。大学在学中の1984年に講談社の新人賞でデビュー、『AKIRA』で知られる大友克洋の下でアシスタントを続けながら作品を発表する。大友が原作と脚本を手掛けた『老人Z』が縁でアニメ制作に関わり、以降1997年の初監督作『パーフェクトブルー』まで二足の草鞋を履き続けた。

 そんな彼の最後の漫画作品『OPUS』は、漫画家が自作の原稿に突如あいた穴から作品世界へと迷い込み、逆にキャラクター達が現世に飛び出すという虚実の混濁を描いた、後に今が追い続けるテーマの先駆けとなる作品であった。そして「原稿用紙」を境に二つの世界をシームレスに行き来する様は、今の遺作となった映画『パプリカ』のイメージが既にこの時点で彼の中に明確に存在していた事を思い起こさせるのだ。

 『パプリカ』は筒井康隆の同名小説を原作とした2007年公開の作品。精神研究所に勤める千葉敦子は同僚の時田浩作が開発した、他人と夢を共有できる画期的な装置「DCミニ」の開発に従事している。彼女にはDCミニで患者の夢に直接入り込み治療をおこなう、サイコセラピストならぬ夢探偵"パプリカ"としての顔があった。いつものようにパプリカとして活躍する彼女の元に予期せぬ侵入者があらわれる。それを契機に彼女の周りの人々の夢が侵食されていく。何者かによるDCミニの強奪、犯人を追う中で見えてきた黒幕の存在。そしてついには夢の持つ力が現実世界にまで影響をおよぼし、現実と夢とが次第に混濁していく。パプリカはこの状況を救えるのか……

 これまでのフィルモグラフィーにおいて現実と夢の境界線を巡る作品を描き続けた今による本作の映像表現は見事だ。緻密な画面設計にスーパーアニメーター達の力量、そして新たにCGを活用した自在なカメラワークや細かいモブ描写が加わり、圧倒的な質感をもって夢と現実が立ち現われ消えていく。実写であればCGや役者の存在感で作り物に見えやすい虚実の境が、アニメーションならではの絵としての均質性でシームレスに繋がっていく様は、今が目指した映像表現の一つの到達点といってよい。

 では本作を「筒井康隆作品の映像化」として見た場合はどうだろう。虚実の混交、二人のバーテン(今と筒井が声を当てているのは象徴的だ)が重要な役回りをするネット上の仮想バー「レディオクラブ」など、そのメタフィクション性は、筒井作品の「虚構であることを前提とした虚構=超虚構性」の一面を捉えることには成功しているだろう。

 ただ二部構成の長大な原作を90分の作品にまとめるにあたり、今が「原作のなかで印象に残ったシーンや「ここは映像にしてみたい」と思ったシーンを膨らませた」と語るように、かなり大胆な省略と再配置がおこなわれており、ダイジェストストーリーを見ているような印象を受けることも否めない。その結果として黒幕である理事長の乾の存在が後退し、単なるエゴイズムに囚われた小物のラスボスになってしまった。実はこの乾こそが筒井の文学的問題が隠された重要な人物なのだ。

 SF評論家の藤田直哉が自身の筒井論『虚構内存在』の中で述べているように、善と悪が対立する観念である事を否定し、夢=集合的無意識上で善悪が混然とした形で人と対立しているとする乾の思想は、筒井自身の文学観とも通底している。

 そしてこれは、表層的な「きれい」「きたない」で判断し根源的な問いかけに至ろうとしない、後の筒井の断筆宣言へとつながる「言葉狩り」と対になるものだ。物語に結末をつけるためにエゴイスティックなわかりやすい欠点を持たされているが、乾の思想には筒井の本音が隠されており、それが悪役としての彼の存在を複雑にしているのだ。彼の矮小化により、本作は筒井作品であるための柱を失ってしまったように見える。

 今自身は本作を『OPUS』から一貫して追い続けた虚実入り交じる世界に対する一つの総決算と捉えていたようであり、最高の映像表現で描かれていた。だが『パプリカ』を原作としたが故に原作のもつ物語的構造に縛られ、かといって筒井の文学的作品性はそこにはなく、ストーリー上の制約としてのみ機能してしまった印象を受けるのである。

 もちろん本作の制作時、今にとっては次の作品(それは完全オリジナル作『夢みる機械』として結実するはずであった)へと踏み出すための通過点であったのかもしれない。だが結果として本作が遺作となってしまった現在、この制約により内包するストーリー的な弱さが、なんとも勿体なく思えてならないのである。(了)