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パラドックスから学んでみた

時間が経つのも早く、2021年になりもう10日もたっていた。年明け直後に緊急事態宣言も発令され、できることからやっていこうと思いつつ、思考停止になって家にこもっている。家にいても誰の役に立つわけでもなく、なんかよくわからない気持ちになることもある。
自殺を考えてしまう人の気持ちはさすがにわからないが、気持ちが内向きになってしまうことはわかる。でも自殺はダメ、絶対。

そんな生活の中、最近は少しハマっていることがある。
「パラドックス」
コトバンクによると「パラドックス」とは「一般的に正しいと思われていることに反すること」という意味である。簡単に言うと、逆説、ジレンマ、矛盾といったものである。

有名なものでいうと、親殺しのパラドックスとかは聞いたことがあるのではないか。

「研究者Aがタイムマシンを開発した。その研究者Aはタイムマシンに乗って、自分が生まれる前に行き、父親になるはずの男に会いに行った。研究者Aはそこでその男を殺した。そうすると、研究者Aは生まれなかったことになるから、タイムマシンも誕生しなかったことになる。ということは、父親になるはずの男は殺されていないのだから、研究者Aは生まれてきたはずだ。」

という内容だ。ループに入ってしまい、考えれば考えるほどわからなくなっていく。

また、嘘つきのパラドックスも有名である。

「私は、いま嘘をついています。」

同じように考えてもわからない。

パラドックスやジレンマには多くの種類があり、数学的思考が非常に求められるものもある。

どうして「パラドックス」を考えることにハマっているのか。理由はふたつある。
1つは、思考停止に陥ることができるからである。このご時世自分にできることは何か、今やらなければいけないことは何か、常に考えて動くことが求められている。そんなときに、考えても理屈で説明できないものが目の前にあるとき、悔しいながらも何も考えられなくなる。何も考えなくてもいいんだという気持ちにしてくれるものが「パラドックス」には隠れている。これが解けなくても誰にも迷惑はかからないし、面白い考えにつながるだけである。

もう1つは教育学部を選択したこととも関連してくる。私は高校時代、いやそれよりもっと前かもしれないが、「教育」とは何なのか、を考えたいと思っていた。どうして自分が当たり前のように学校に通って先生から教科内容を教わっているのだろうと。しかも指導方法はバラバラ。本来平等であるべき教育が、一人の教員によって覆されている。ただ勉強を教えるだけが教育なのか、正解はなんなのか。これが知りたくて「教育学」が学べる環境を大学に求めた。人間と教育という点で学びたいととう一心で受験勉強をした。第一志望には落ちたけどな!笑
しかし、努力も報われてか、教育学を学ぶ機会を今でも得られている。しかし、当然なのだが、答えが出るわけがない。なんなら一歩も近づいていないかもしれない。でも教育について考えている時間は貴重なもので、嫌いではない。
「パラドックス」が好きな理由はここにあるのかもしれない。
「正解がないものを考え続ける」

多くの人に当てはまることであるが、勉強が嫌いだという。考えられる理由はいくつかあるが1つとし「できないから」ではないか。できないから嫌いになる、これは当然の流れである。できる、できないの判断基準は「正解」に近いか遠いかではないか。正解があることを前提として考えるのが勉強であるため、正解できなかったらすぐできないと考えてしまう。
その面、「パラドックス」には正解がない。だからできないという感覚に陥ることもないし、わかんねーけど次!と進むことができる。

すぐに自分のフィールドに持ち込んで話を展開してしまうため、興味のない人は途中で離れていってしまうなと感じてしまった。はやり共感できる話を書くことは難しい。書いている人は「共感してもらうために書く」なのか「共感できる部分を読者自身に拾ってもらう」のどちらを意識しているのだろうか。

こんな悩みは置いておき、話をパラドックスに戻したい。正解がない教育学について勉強している。勉強は正解を求めるものなのになあ。ないとわかっていながら勉強する。パラドックスっぽいでしょ?笑

言葉の綾ですよ。教育学は全部正解です。

書きたかったことは、「何も考えないようにしている」時間がいいって事だ。これはパラドックスです。

ちょっと頭を使っていい締めになるように書いてみた。誰かの役に立つではなく、自分のために頭を使えることが幸せですね。

※画像はイメージです。

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