卒論は漫才

チューターの教授との面談で、休学期間中お笑いの学校に通った話を一通りしたら、「きっとネタを表現する中で、恥ずかしいとか自分のエゴみたいなものが出てくると思う。そういうものはどうやって克服するの?」と聞かれた。
その質問自体がめっちゃ面白くてさすが!とワクワクした。
こう答えた。

「直接それの回答になっているか分かりませんが、自分が本当に面白いと思うことを出すしかないという環境に置かれたことが一番大きいと思います。『世間はこれを面白いと思っているだろう』というガワの部分だけでネタを作ってきた人たちは講師に酷評されていましたし、『本当にこれを面白いと思ってやっている』というのが伝わる人はそれがより伝わるための具体的なアドバイスをもらえていました。
なので、かっこつけて表面だけのネタを出すより、恥ずかしくても本当に自分が面白がっているものを出すしかなくなるんです。それが肯定されて評価される環境でした。」

教授はそれを聞いて「卒論と同じだなぁ」と言った。
「これが世間で問題になっているからこれをやりました、という学生がどうしても多くてね。本当にその学生が、20年そこら生きてきた中で湧き出てきた問いや疑問を扱うのが面白いのに。まさに、本当に面白いと思っている問いやテーマじゃなかったら、その人がやる意味がないんだよなぁ。

うわおもしろ!卒論と漫才は同じか!
話が盛り上がって(もちろん他にも話はしたが)結局2時間(!?)教授とお喋りした。「話長引いてたねぇ」と言う母にこんな話してんと内容を話したら、「ああ、卒業制作と同じやわ」と。
母は美大を出ているので卒論の代わりに卒業制作を作っていた。
美大の教授も、ただ綺麗だけの作品には「こんなもん、その辺の雑貨屋であるやろ。すでにあるもんお前が作ってなんの意味があるねん」と言い捨てて回っていたらしい。
「創作に関わる人の視点やね。研究もお笑いもクリエイティブやもんな」と母は続けた。

「既存の物は求められていない」っていろんなところで言われるが、もしかしたら「求められている、求められていない」以前のことなんだろうなと、一連の話の中で考えた。
世間が何かを求めているんじゃなくて、自分が世間と関わるためには新しいものを携えなければならない。
その「新しいもの」こそが「自分が心から面白がっていること、自分にしか気づけなかった問い」であり、「自分がやって意味があること」。オリジナリティと呼ばれるもの。
自分が心から面白いと思うことをやってみて、初めて世間が自分の存在を認める。それも「あ、ここにも人間がひとりいてたんですね。」と横目でチラッと見られる程度に認められる。
それがありきたりなものだったら無視されるし、画期的だったら評価される。無視されても全然平気かもしれないし、評価されても逆に苦痛かもしれない。表現してるつもりでも全く伝わらなかったものが、ちょっと変えただけで誰かに伝わるかもれない。そしたらちょっとは生きやすくなるかもしれない。そうやって世間の中で生きていく。

まぁ、だから生きていくために「自分を知る」というのが大事なんだろうな。

結論、「卒論は、漫才」

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