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最近の風潮について【日々のこと】

30代の中ごろ、私の中から善悪が消えて無くなりました。どうでもいいことをアレコレとこねくり回して考え込んでしまう私は、この世には絶対的な善悪など無いのだと結論付けてしまった。人によって時代によって環境によって、それぞれの善し悪しは勿論あるでしょう。でも、絶対とは言えない。極端なことを言えば、人殺しですら悪だとは言い切れないようになってしまいました。たかだか数世代ほど遡るだけで仇討ちは誉にすら成り得ていますし、恥を忍ぶくらいであれば腹を掻っ捌いた方がマシであったり天晴であったり。人間の命の尊さを説く善も、最近になってからの流行り程度のことだという考えは、現在悪口とみなされるので口が裂けても言えません。

善悪が無くなると途端に困ったことが起きました。物事が判断しづらいのです。往々にして、その行いが善いのか悪いのかということが判断の基準になります。それが無くなってしまった。何をしようが何をされようが善いとか悪いと言えないし思えない。結構、困りました。100%善だ悪だと信じ切っては意見を押し付けられる人を見ると嫌味ではなく羨ましくなる。あのように成れるのであれば、ある意味、生き易かろうと。

仕方がなく、別の基準を設けなければと持ち出した物差しが好き嫌いです。これならば私の中だけで判断が出来る。世間では知りませんが自分の中だけの絶対的なものではある。「戦争は悪だ」とは思えない私でも「戦争は嫌いだ」とは言えます。「生きねばならない」と説くことは出来ないけれど「生きてほしい」と乞うことは出来ます。表現を変えただけで同じことを言っているだけだという人はいるでしょうし、確かにそうかもしれません。でも私の中では大きく違うのです。

今、そんな私から見ても元々好き嫌い程度の話ではないかと思われることを善悪に言い換えて主張する人が多いように思います。好きでは弱いので善の威を借りては大威張りしているように感じる。嫌いだけでは不足なので悪と名指しては番人を気取って断罪していく。善悪が抜け落ちた私から見ると、ありもしない刀を振り回してのチャンバラに見えて、気が触れて躍っているようにしか見えない。それでいて、それなりに傷ついては深手を負っている人もいるので死すらチラつく妙な狂騒曲です。

私が使える言葉では無いのですが善くない気がします。私は嫌いです。

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