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経過

全然更新しないうちに11月になっちゃった( ´ω` )
気づけばもう少しで共通テスト、一般試験などなど…色んなイベントが目白押し。まだ区切るには早すぎる時間、どう表現していいかわからない。何を書けばいいのかも思いつかない。浮かんできた言葉をただつらつらと述べるだけ(; ;)
少し暗い話をしよう
10月23日に母方の祖母が亡くなった。94歳だった。大往生だって両親ともに介護施設の方たちも言っていた。10月15日、祖母が熱を出して危ない状態だと言うことを聞いて、私は母と一緒に祖母の介護施設へ行った。自分で酸素を吸うことが少し困難になっていて、酸素を鼻から入れてないと辛いようだった。でも、私と母が来たのを知ると名前を呼んでたくさん話してくれた。手も握ってくれた。私があげたぬいぐるみはベッドの近くに今年の誕生日プレゼントだったピーターラビットのぬいぐるみと一緒に置いてあった。いつも通り、本当にいつも通りだった。違うのは酸素を付けているだけ、ただそれだけ。帰りにも私と母に向かって大きな声で「ばいばーーい!」って…そう言ってくれた。でも、少しだけ私は不安な気持ちだった。なんとなく祖母が遠い手の届かない所へ行ってしまうような、そんな感覚が少し。2日後、祖母が元気になったという連絡があった。私は峠を乗り越えたんだ、よかった、一安心だって思ってた。祖母は私にまた来て欲しい、と会いたい、とそう沢山言ってくれてたみたいで…私も祖母が元気になって嬉しかったしまたすぐ会えると思ってた。時は進み23日の朝、母が会社に行くと家を出た時、ゴミを持って行くのを忘れていたから持っていったら母が誰かと電話していた。声のトーンでなんとなく誰かが亡くなったということだけは感じ取った。でも、誰かは分からない。母が私をちらっと見て玄関に入り座った。電話が終わり、私に「おばあちゃん亡くなったって」ただ一言。最初その言葉を理解するのに少しだけ時間を要した。『亡くなった』その言葉は予想もしていなかった言葉。意味を理解して、誰が当てはまるのか理解して、やっとおばあちゃんが居なくなってしまった、ということを理解した。その日はずっと放心状態だった。休みだと思ってた塾も休みじゃなかったし、急いで化学だけ受けに行った。その間もずっと心ここに在らずって感じだった。塾から帰ると葬儀屋さんが来ていた。きついお香の香りがした。2階に行って気を紛らわそうとyoutubeで好きな配信者さんの動画を見て、Switchであつ森をやって、でもその間もずっと『亡くなった』という事実が頭の中を駆け巡って、なんで?どうして?と。その日の寝る前、おばあちゃんが亡くなったことについて考えた。もう名前も呼んでもらえない、手も握ってもらえない、でも、それよりも辛かった、後悔していたのは私に会いたいと言っていてくれたおばあちゃんに会いに行けなかったこと。塾の勉強なんか今でさえ行ってる時も行ってない時もあるくらい雑な行き方してるから、休もうと休まいと関係なかった。塾なんて行かずに会いに行けばよかった、ずっとそれだけを後悔していた。自分じゃ抱えきれなくて、高校時代の私の一番の理解者に話した。辛いよね、大丈夫じゃないよね、私が何も言わずとも欲しい言葉を心を埋めるようなそんな一言をくれる人。その子だけが私の救いだった。唯一分かってくれるそんな子。その日の夜は友達に話しながら9時くらいから12時くらいまでずっと泣き続けた。泣き疲れたのか急に眠気が襲ってきてそのまま寝てしまった。朝起きたら目がすごい腫れていて今日が休みでよかったと心から思った。友達に話したのは25日だったかもしれない。ここから先は少し長くなってしまうから、お葬式の日まで飛ばそうと思う。お葬式の日、その日はおばあちゃんの親戚の方が沢山来ていた。皆さん良い人だった。お葬式中、私を除いて誰一人泣いていないと思っていた。でも1人だけ、たった1人だけ私よりグズグズに大泣きしていた人がいた。泣くなんて関わりが相当濃かったんだろうなってただそう思っていた。後から聞いた話、おばあちゃんはその人のおばさんに当たる人だったそうで、結婚が遅くおばあちゃんと長く一緒にいたそうだ。本当の家族のような人だったのかもしれない。その人の心の傷はどれほどかは分からない。最後まで泣いていたのはその人だけだった。火葬する時もまた会おうなって言って泣きながら花を入れて、御骨を壺に入れる時もその人は泣いていた。なんとなく親近感を抱いて、人として好きだなあと感じた。私も随分とボロボロ泣いたけど。大好きだったおばあちゃん、もう二度と名前を呼んでもらうことも手を繋いでもらうこともできない。それでも、おばあちゃんに逢えてよかった、孫でよかった、そう思わせてくれた。
おばあちゃん、本当にありがとう。大好きだよ。お疲れ様。

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