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『君たちはどう生きるか』がちょっと分かるかもしれない聖書とアダムの話

※この記事は宮崎駿監督の映画『君たちはどう生きるか』の内容のネタバレを含みます。ご注意ください。

 映画『君たちはどう生きるか』は、『風立ちぬ』以来10年ぶりとなる宮崎駿監督によるアニメ作品であり、ほぼ宣伝はなく、謎めいたポスターとタイトルのみ告示されるという広報形式は、果たしてどのような内容なのかと世間を騒がせた。

 私の感想は「とても面白かった!」であり、特に最後に終盤で主人公が出した結論は感動的だと感じたのだけれど、他の人の感想を聞いていると、「どういう話なのかよくわからなかった」という声がちらほらある。

 どこがわかりづらかったのかと考えた時、私はあの物語がとても外国文学っぽい物語のせいなのではないかと思った。あの物語から感じられる精神は、『もののけ姫』なんかに見られる日本的な自然崇拝の雰囲気ではなく、キリスト教の雰囲気に近い気がする。キリスト教の世界の物語は、直接宗教の物語でなくても、常に「人間はアダムとイブから始まっている」という原則につながっている。そこが日本の観客にはわかりづらかったのでは?と思っている。

 この記事では、私が『君たちはどう生きるか』を見るときに頭の中で参考にしたキリスト教的な文脈をざっくりと解説しつつ、なんとなくの感想を語っていく。

※この記事で書かれていることはあくまで個人的な感想や思いつきであり、こう見なくてはいけない/こう見るのが正しいというものではありません。また、聖書や歴史的事象の解釈に関して誤りや不適切な表現を含んでいるかもしれません。どうかご容赦ください。

「アダムとイブ」に関しては、キリスト教徒でなくても知っている人は多いかもしれない。神様(キリスト教では厳密には「主」だけど、ここではカジュアルに神様と呼ぶ)に作られた最初の人類で、約束を破って知恵の実を食べてしまい、楽園を追放される。
 この時に約束を破ったことは人間の「原罪」であり、人間は本質的に悪いものになってしまった…。というのがキリスト教、およびその前身にあたる教えの中心にある。

 「旧約聖書」の宗教、現代で言うところの「ユダヤ教」は、ユダヤ人だけを救う選民思想的な宗教だとよく言われるけれど、実はそうでもない。旧約聖書にはユダヤ民族でなくても、神様を真摯に信じて行動したので救われる人が何人も出てくるし、その何倍ものユダヤ民族の人が神様との契約を破って凄まじい罰を当てられている。選ばれてみんなを導いていたような人でも容赦なく見放されていたりして、めちゃくちゃ厳しい。
 なぜこんなに厳しいのかというと「原罪」のせいである。アダムとイブがやらかしたので、人間は基本的に信頼に値しないし、君ならいいだろと選ばれた人でもルール違反を犯すと即刻アウトになる。
 例えるなら、何代か前の先輩が旅先で暴れまくって死ぬほど迷惑をかけたので、自由行動禁止で常に引率の先生が付いて回っている修学旅行状態である。「俺なんもしてないからUSJに行きたい…」と思っても、ダメなのだ。一切私語をせずに列を作って三十三間堂を見なければいけない。

 そこに登場するのがイエス・キリストという方である。キリスト教徒は十字架を神聖なシンボルとしているが、「なぜ神聖な方が殺されるときに使われた拷問器具をシンボルに…?」と考えたことはないだろうか。これはキリスト教がキリストの磔刑を「神聖な活動をしていた人が冤罪で殺された」というより「神聖な存在が人の姿でやってきて、刑死するという儀礼を通じて人類の原罪を代わりに償ってくれた」と考えることに由来している。いうなれば、かつて迷惑をかけた観光地に行って土下座で謝ってくれた金八先生のような存在である。

 キリスト教は「律法を守らないと神に見放される」減点式だった旧約聖書の宗教を「善いことをすると神の国に行ける」加点式に変えた。金八先生のおかげで、修学旅行生たちは自由行動ができるようになったのだ。もし不始末があったとしたらその生徒個人の問題であり、反省文を書かされたりするだろうけど、旅のしおりにびっしり書いてあるルールを全部遵守しなくても、強制送還されることはなくなったのだ。
 そのため、アダムの物語とキリストの物語はワンセットである。金八先生がいかにすごいかを話すときは、まず「アダムのクソがよ…」から始まることになる。

 しかし、ルネサンス期になり、古代ギリシャ・ローマの文献がアラビア経由でヨーロッパに再輸入されると、人間美を表現した美術や人間の知性を尽くした科学がヨーロッパを席巻し、人間の力って結構すごくね?となり、「人間ブーム」が起こる。このブームは「人文主義」と呼ばれる。このころめっちゃ人間臭いギリシャ神話が流行るのと同時に、キリスト教界隈では「最初に人間やった人」としてアダムの再評価が起こる。

 人文主義の力で、ヨーロッパの芸術や科学は急速に発展するのだが、「人間の力ってすげー!」の弊害として、今まで教会の力で抑えていた酒池肉林も流行り始めた。なんなら、ヨーロッパの文化と教養の中心であり、要職が貴族の子弟で占められていた教会が積極的に酒池肉林するようになった。
 
一部のまじめな人はその様子に「これはさすがにどうなん?」と不満を募らせるようになり、ついにキレた超マジメ修道士マルティン・ルターさんの教会の現状ディスに乗っかる形で、新たなキリスト教「プロテスタント」が誕生する。(本当はもっと複雑な事情や背景があるけど、ここでは簡略化している。)

 人間は良い人間のふりができるし、良いことだと思っていても、悪いことに手を貸してしまったり、あるいは自ら悪を行ったりしてしまう。そのため真面目なプロテスタントは見せかけの「善い行い」で天国に行けると考えない。「善い」かどうかは人間ではなく神様が決めるのだ。
 ただし、ここで問題が起こる。旧約聖書の宗教の「守っていれば天国に行けるルール」はキリストによってなくなった。中世のキリスト教のように、「善いことに見える」ことをしても神様がそれを「善いこと」にカウントするかはわからない。ただし人文主義のやつらみたいに悪いことを平気でしたら地獄に落ちるだろう。彼らは考える。「俺たちはどう生きるか。」

 ここで「マジで何もわかんないしマジ罪深いし裸一貫で荒野に放り出されたけど何とか人間をやってみた男」としてアダム先輩の株が急上昇する。
 イギリスのピューリタン(イギリスは王様が「英国国教会」という謎の新キリスト教を始めてプロテスタントを自称しているので、ルター系列のプロテスタントの人たちを区別するためにこう呼ぶ)であるジョン・ミルトンはアダムの楽園追放をテーマに『失楽園』という一大叙事詩を書き上げた。

 『失楽園』がすごいのは、極めて真面目なキリスト教徒が書いた聖書の物語なのに、悪魔がめっちゃ魅力的なところだ。魔王ルシファーは君臨する神に憧れ、嫉妬し、恨み、神の美しい楽園に暮らす純真無垢なアダムとイブをどうにか悪堕ちさせてやろうとあの手この手で誘惑してくる、現代でも人気の出るタイプの悪役である。アダムとイブはついに誘惑に負け、楽園を追放される。二人は過酷な環境と人類の暗い未来に絶望するが、アダムはそれでも「生きていく」ことを選ぶ。『失楽園』でアダムがかっこいいのは、堕落する前よりも堕落した後だ。

 こうしたアダムのイメージは、「小説」という文化の登場と共に物語の中に広がっていった。R.W.B.ルイスは『アメリカン・アダム』の中で、アメリカの小説の主人公がいかに「アダム」なのかについて語っていたりする。
 例えば「故郷を失ったり捨てたりして、危険な旅に出る」主人公や「自分や先祖のやらかしで、周囲の人々から疎まれ、嫌われている」主人公はアダムっぽい。もしも彼が大冒険の末に「自分を犠牲にして、仲間や人々を救う」ことになったら、アダムからキリストに続くキリスト教の物語の再現にも見える。アダムとキリストのイメージは、西洋の冒険物語における、重要なパターンの一つなのだ。

 前置きがとても長くなってしまったが、ここから『君たちはどう生きるか』の話だ。
 
 最初に主人公の真人くんが奇妙な塔の世界の主である「大叔父様」と出会ったとき、大叔父様が「私に代わって積み木を積んでくれ」と提案され、真人は「それは木ではなく石だ。墓のように悪意がある」と断る。次に彼らが出会ったとき大叔父様は「選りすぐった罪のない石」を差し出すが、今度は「自分は自分で頭を割った。罪のないものに触れることはできない」と再び断る。

 この奇妙なやり取りに面食らった人も多いかもしれない。宮崎駿監督の個人的なメッセージをそこから読み取っている人も多いが、私はここにアダムの物語としての意味合いを感じた。
 真人が「石」を拒む理由は「墓のように悪意がある」からである。「墓」は本来死者を悼むもので悪意とは結び付けがたいが、彼の中では墓が象徴する「死」と石(暴力)によってもたらされる「死」が結びついているのかもしれない。彼はまさしく暴力に支配された戦争の時代の人間なのだから。

 では、「罪のない石」を拒んだのはなぜか。彼がなぜ突然自分の頭を傷つけたのか、その答えは物語の中にはない。直前にした喧嘩で、相手を傷つけたけじめなのか、あるいは自分の被害を大きく見せたかったのか、喧嘩の傷を家族からごまかすためか、嫌いな学校から自分を遠ざけるためか、あるいは父の成金趣味を強く拒絶できない自分へのいら立ちか。
 理由はいくつも想像できるが、どの理由もつながるのは彼の「悪意」であり「弱さ」だ。そして彼は「神様」に用意された「無垢な世界」を受け入れるよりも、自分の「悪意」と向き合い「罪ある人間」として生きることを選んだのではないだろうか。彼は石の悪意に甘んじてそれを積むことを拒む懸命さを持つが、同時に自分がどうしようもなく「石」の人間であることから逃れられない存在であることも理解しているように見える。

 「真人」の名は「真の人間」である。真の人間は人間の善さだけでなく、邪悪さも持ち合わせていなくてはいけない。『君たちは』をダンテの『神曲』に例える批評があったが、青鷺はダンテを導く賢明で頼もしく、善良なウェルギリウスには見えない。真人を嘲り、騙し、返り討ちに遭う醜い青鷺は、神を妬み、アダムのプライドを巧みに挑発する悪魔の方がふさわしく見える。
 大叔父様の楽園に背を向けた真人は、かつてあれほど憎んだ青鷺を「友達」と呼ぶ。かつて邪悪を憎み、殺そうとした真人は、このとき悪魔を許し、共に生きることを選んだのだ。

 現実に帰った彼のポケットには「無垢な石」が一つ入っている。
 青鷺はそれを「大した力のない石」と軽んじる。しかし、これは「大した石」であってはいけないのだ。己の邪悪や罪を受け入れ、立ち向かい、悪魔と手をとって生きていくことを決めた真人にとって、この石は大叔父様の世界、すなわち子供の頃の無垢な世界の微かな思い出であり、塔から解放された悪魔の鳥たちが飛び去った後、パンドラの箱の中に残る小さな希望だ。

 多くの観客が『君たちはどう生きるか』というタイトルから連想される説教っぽいイメージに対し、結局「どう生きるのか」がわからないと思っているだろう。それはその通りだと思う。人間は神にも悪魔にもなれない。「どう生き」ようもないのだ。
 真人は「ともかく生きる」ことを選んだ。それはアダムの讃歌であり、人類の讃歌である。

 邪悪な石だろうと無垢な石だろうと、人間は積まねばならないのだ。

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