見出し画像

呼吸をしよう

 とても、だるい。なにもしたくない。何もしたくないけれど、活動を求める自分がいる。分離感。いっそ寝てしまいたいけれど、たぶんそれをしてもある自分は心地よくないように思う。なにもしたくないけれど、ここをひらいてみた。外は雨がふったりやんだり。とても静か。

 今日もだるい。今日も機嫌があまりよくない私。猫やらにもイライラとしている自分を感じる。はたしてぼくは何に怒っているのだろう? さきほど、そのように「怒り」についてある思いが浮かんだ。それは、怒っているときというのは、外側に責任転嫁をしていることが多いのかもしれないということ。誰かのせいにしている。何かのせいにしている。そうして、誰かや何かのせいにしたいというときとは、自分が外側世界を思い通りにしたいけれど思い通りにならないことに苛立っているのではないのかな、と思った。でも、思い通りにならないことにイライラするのってナンセンス。思い通りにならないからこそ豊かだということもあるのだ。だって、すべてがすべて思ったとおりになってしまったとしたら、それって驚きがないということだもの。いや。わからない。わからないけれども。もしかして、すべてが思いどおりになっているのがこの世界、現実というものかもしれないのだけれども。

 理想と現実。理想と違う現実に苛立つのだとしたら、その理想というのは現在の自分にとって害を及ぼしているともいえる。理想は理想として、現実と別の、それこそ正しい意味の「理想」とできたとき、理想は理想となり、健全で有益なものなのかもしれない。なんでもバランス。何対何がよいのかわからないけれど、理想は現実のスパイスくらいがちょうどいいのかもしれない。ぼくの場合はおそらく理想過多なのだろう、だから現実にイライラしてしまったりする。でも、「してしまう」と書いたけれど、べつにイライラすることが悪いわけではない。「イライラ」を悪とするから、イライラをなんとかしようとしたり、そのような状態にある自分にまた苛立ったりと、ストレス的なものを生みだすのかもしれない。呼吸。呼吸をしよう。意識的な呼吸を。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?