もつ鍋とメリークリスマス

明日は出発前夜だ。

羽田空港には前乗りで移動した。実家から最寄りの空港に移動するコースを選ぶと、羽田発11時発のタイ王国行き便に乗りづらい事が判明したからだ。(4時半起床のリスクよりも、確実な安心を取りたい年頃なのだ)

夕方の便で羽田に降り立つと、第3ターミナルはコロナの影響か人気が少ない。行き交う人を横目に、Pitapaを使い東京モノレールに乗り込む。車内でふと数年ぶりに会う同期の事を考える。

同期とはいつの時代も”無条件に良いもの”だ、距離が離れ、月日を重ねても、ふと一度会えば昔のあの頃の心持ちが蘇り、すっと無理なく当時の感覚に戻る事ができる。今日会うA君とは入社1年3ヶ月目で、人身御供として親会社へ出向した仲だ。”腐れ縁”と彼が宣うだけの事はあり、出向の苦楽を共にした経験は二人にしか分からないものがあり、その記憶が不思議な同志感として残っているのだろう。(そうであって欲しという願いも込めて)

コロナ禍という大変な一年を過ごした今、もつ鍋をつつきながら思うところを素直に聞いてみたい。そんな事を考えながら新橋駅に降り立つと、行き交う女性が妙に垢抜けていることに気づく。やはり関西の西宮とは違うのである。人間の顔のシャープさが格段に異なるのだ。それはある種の緊張であり、不特定多数の人の海の中で溺れないぞという必死の覚悟のように思えた。お店に入ると、A君が奥の座敷に座ってビールを飲んでいるが見えた。いつもの彼の佇まいに懐かしさが込み上げる。

「やぁA君」→「おおなんや、元気しとったんか」と、いつものお決まりの入りから、近況についてのたわいのない会話が始まる。話の内容はさておき、生きて元気に会えるの事が一番だとこの歳になると強く思う。

相手の話に全て賛同するということは無いが、意見が違う点をことさら指摘することもない。人の人生は様々であり、人の生き方にコメントすべきではなく、まして批評や否定などもっての他だ。そこは多様さを受け入れて、誰もが相手を眺め・その人そのものを味わう事が、この年代のコミュニケーションの醍醐味かもしれない。そんな事を頭の片隅で考えながら、もつ鍋のクリスマスイブの夜はふけて行く。

また次もいつになるか分からないけど、元気に会おう。会ってあの頃の心持ちで話すことが同期であることの”有り難み”なのだから。


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