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清末の成り上がり物語

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激動の混乱期、清末に一般庶民から歴史上になを残す人物になった成り上がりたちの姿を生々と描く近現代中国の読みもの。 比較的簡単に読めて、新たな視点や考え方を得られるのが面白い。 歴…
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#フランス

清末の不死身 第六章

クールベの頭はクラクラしていた。 真正面から攻めようとしても入れない。忍び込もうとしても、水路に詳しい水先案内人が見つからない。 寧波のフランス人宣教師が移動してしまったので、情報がないのだ。 さらに致命的なきなことは、もし定海を攻略できなければ、フランスは陸上の拠点を失い、 海上に留まらざるを得なくなり、新鮮な野菜すら食べられず、時間が経つにつれて、フランス兵は栄養失調になり、士気も低下していった。 クールベ自身は重病にかかり、毎日ベッドに横になってため息をついていたが、

清末の不死身 第五章

清軍は十分な準備を整え、鎮海の要塞の守備力はかなり高かった。港に隠れていた清国の軍艦3隻も一緒になって砲撃し、火勢を援護した。 相互の砲撃戦の末、フランス戦艦が貫通し沈没寸前となり、慌てて煙幕を放ち戦闘から離脱した。 残った数隻もこれに続き、戦闘から撤退した。 こうしてクールベの先制攻撃は失敗に終わった。正面からの強力な攻撃が効かないとき、クールベは卑劣な手口を使った。 3月1日の夜、フランスの小型船2隻が銭形門に停泊し、奇襲のために上陸しようとした。しかし、水路に詳しい操

清末の不死身 第四章

 1885年2月、朝廷は南洋艦隊の"開済"号など5艘の戦艦を封鎖された台湾救出のために派遣した。結果、南洋艦隊とフランスのシベリア艦隊が真っ向衝突した。  南洋艦隊は本来艦隊としてのものではなく、 この5艘は寄せ集めであり、そもそもフランスの相手などではなく、北に向かって走りさえすればよいくらいのものであった。  その中に比較的スピードが遅い2艘の戦艦が 仏軍に包囲されたのち、放水して沈み、残された3艘は一路北に向かって走り、鎮海に着いた。  フランス艦隊も3艘の後を追い、鎮

清末の不死身 第三章

その年、アヘン戦争が終結し、イギリスは 定海を返還したものの、依然として清政府に協議の調印を迫った- 清政府は定海を他国に譲り渡すことなど出来なかったが、もし他国が定海を占領するようなことがあれば、イギリスは出兵を伴う干渉を行うと言うものだった。  これは本来屈辱的な協議だが、薛福成が利用できる道具でもあった。  薛福成はすぐさま駐寧波イギリス大使を訪ね、イギリスにこの協議の遵守を求めた。  イギリス国内世論は、フランスが中国東南沿岸を侵略し、イギリスの商業利益に損害を与えて

清末の不死身 第二章

この1年で清政府とフランスの戦争は全面的に 拡大した。 フランスは海軍の優先を武器に中国の東南沿岸を攻撃し続け、東南沿岸の海防を早急に強化した。 李鴻章の推薦のもと、薛福成は浙江省寧紹台道に任命され、寧波、紹興、台州の3府の海防を担った。 今回は候補ではなく、実務の幹部地位だった。 この1年で、46歳の薛福成はついに正真正銘の役人になったのだ。  彼は興奮して止まず、まずは北京に恩を感謝し、すぐさま浙江省に赴いた。  興奮が興奮を呼び、しかし圧力も同様に巨大化した。フランスの