見出し画像

PLAN75

先ほどアマプラで『PLAN75』を見終えたので感想のようなものを書く。


まず倍賞千恵子が、そのままの「老い」をさらけ出していることに感銘を受けた。もちろん役柄的な演出もあると思うが、世の中の一般的な80代の女性像を、ほぼそのまま写し取ったと言っても過言ではないほど、女優としての美を捨て去っている。そこに役者魂をみた。

次に、倍賞千恵子演じる主人公の高齢女性が一人で夕飯を食べている姿が父親と重なった。老人の孤食は切ない。「あぁ、父親もこんなふうに一人でぼそぼそとご飯を食べているのか」と思うと、改めてもっと実家に顔を出そう、あとどれだけ生きていられるかもわからない。生きているうちに美味しいものを食べさせようと思った。


そして私も近い未来、この映画の主人公のような暮らしになるのだろうと思った。一人で、老いぼれてみっともない老後を迎える。

かつて母親が「若さは強さ。年寄りの言うなんて誰も聞かないよ」と言っていて、なるほど思ったことがある。その言葉には重みがあった。決して卑下しているとか卑屈になっているとかいうわけではなく、たしかな実感を伴った言葉だった。
若者はただ若者であるというだけで生命体として強い。当たり前のことだ。人は加齢と共に、弱くなる。風が吹けば飛ばされそうな風貌になり、満足に歩行もできなくなる。しわくちゃになって、水分が失われて、枯れ木のようになってしまう。


きっと誰もが、一瞬のうちにこんなふうに人生を駆け抜けていく。劇中では、若い男女が登場するが、不思議と、彼らが老いる時もまた一瞬で訪れるようなそんな気がした。


いったいわたしはいつの間にこんなに年をとったのだろう。いつの間にか、気づいたら、という表現が1番しっくりとくる。


もし仮に、わたしが0才児の眼で桜を見ていたとしたら、既に40回ぶんの桜を見ている。だいたいにおいて、ひとりで。

春は、他のどの季節よりも私に孤独を感じさせる。それはきっと、私が桜の美しさを誰かと分かち合いたいと強く願っているからだろう。

だからこそ、毎年桜が咲くころになると、今年もまたひとりで見ることになったという現実がやるせない。


話が逸れた。

余談だが、倍賞千恵子でさえ老いるのだからアラフォーやアラフィフの人たちがいま美容整形に勤しんだところで、遅かれ早かれ、やがては老いのほうが我々を捕らえるのだろう。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?