観能記蔵出し。マクロとミクロの味方健師の卒都婆小町

2016年4月8日のブログ。

マクロという巨大なものとミクロという微小なもの。一見、対立する概念に見えるものであるが、一方、同じものの見方の違いに過ぎないとも言える。


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このブログでは卒都婆小町を取り上げ、狂言や仕舞は次回のブログに回します。

能〈卒都婆小町  一度之次第〉

シテ /味方 健
ワキ/ 江崎 正左衛門
ワキツレ  /是川 正彦
笛 /杉 市和
小鼓 /成田 達志
大鼓 /河村 総一郎
地頭 /山本順之
地謡後列 /副地河村 和重・河村 晴道・味方 團

一度之次第という小書(特殊演出)が付くと、ワキの次第は少略されて、シテの幕出の後に出て来ます。最も、今では卒塔婆小町の上演は一度之次第付が大半になっています。

習之次第という位の重い囃子がから始まりますが、笛はやや固い。しかし、直後の小鼓の音で舞台は老女物の位へ。成田達志師の立体的で奥行きのある音色はさすがだ。笛の杉 市和師は、最初以外は、透明て静謐な伸びのあるもの。河村総一郎師も、最初は調子が上がらなかったですが、次第に絶妙な間での打音。
成田達志が引っ張っていた囃子でした。

シテ小町の幕離れは、背を伸ばしてしゃんとしている。休息も老女がいかにも疲れたという強調さは感じない。以前観た、山本順之師の袴能の卒都婆小町の幕離れを思い出していました。

次第の謡を聴いて驚きました。錆び錆びといた謡なのです。味方健師の喉の調子が悪いのかと一瞬思ったくらい。狂乱の場面から謡の音色を変えたので、錆び錆びとした謡は味方健師の意図したものと思われる。金春流先代宗家 故 金春信高師の謡が脳裏によぎりました。

卒都婆小町をいろんな役者で観て来たけど、錆び錆びとした謡で(難声の人は除く)始めた意図とは、老女小町の現状の哀れを錆びた謡に込めていたのだろうか。
この小町は、哀れさはあるけれども、弱々しくはない。

ワキとワキツレが幕出して、小町は大小前に、卒都婆とみなした鬘桶に座す。
座した小町の密度が幾分灰色か滲むもので、若きかつての品の光と現状の闇のブレンドさがあり、自分の眼には限りなくマクロに映り込む。

シテとワキ、ワキツレの問答になる。
ワキの江崎 正左衛門師は初見でしたが、伸び伸びと朗らかな謡で、ワキツレの是川 正彦師もハリのある美声。

シテは問答から次第に、錆び錆びとした謡から強い意思を込めた謡に変わっていく。小町の心境の変化を謡の音色の変化で巧みに表現。
この問答までは、自分の眼にはマクロに映り込んでいました。

狂乱の場面から少しずつズームアウトしていきました。舞台空間が変わり、灰色から品の光が強くなっていったように見えました。光と闇で身体を覆っていた小町は、かつての品に光を纏い、狂乱、物乞い、物着からの深草少将の百夜通いの場面からキリまで舞台空間はほぼそのままでした。

地謡は、山本順之師の謡を増幅させたもので、謡の音色の統率感は今の銕仙会の地謡よりも、京観世の役者で揃えた方が良かった気がしましたね。

狂乱の場面から、ややミクロに見えてしまったのは何故だろうか?この答えがわからなくで観能記を書くのが遅れました。
問答までは名演だったのに、狂乱以降は秀演になってしまった気がしたからです。狂乱の場面が、工夫はしていたけれども空間が問答までの闇で覆っていた凄味から、移行した上品の光が明る過ぎたのでは。だから、キリの静謐さの空間の変化の分かりにくさに繋がったのではないのではないだろうか。

幕出から問答まではマクロで名演。狂乱からキリまではややミクロで秀演。
これが味方健師の卒都婆小町を観て感じたことでした。


狂言、仕舞は次回のブログに続く。

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