蔵出しブログ。上方落語第2期は伊勢河崎輝輝亭から

2018年10月9日のブログ。

今日の夕方までの予定を決めあぐねていて、とりあえず午前中に3件目の西成宿に行くと、チェックインの時間より早かったので大きい荷物を預けて新今宮駅に向かう。さて、チェックインの時間までどうしようと考え、ふと伊勢に行こうかと思った。去年の6月に伊勢を離れてから行っていない。

上方落語第2期を今日で終わりにしようと思っていました。どうしても伊勢に行かなければとも。

何故なら、上方落語第2期は伊勢河崎輝輝亭から始まったからだ。
伊勢の皇學館大学を中退して、足掻いていた頃に伊勢河崎輝輝亭の存在を知りました。
伊勢よしもと住みます芸人がカナダ人落語家の桂 三輝(サンシャイン)さんが伊勢河崎の古い家に住み込み、落語会を開いていたのです。

故 桂 米朝師匠の「立ち切れ線香」を東京で観てからタカハシ上方落語第1期は始まりました。桂 吉朝師匠の高座を観て好きになり、この方を観ていけば上方落語は抑えれると思っていたのです。当時は江戸落語がメインだったので、上方落語は米朝師匠と吉朝師匠を観れば充分だと。

米朝師匠が緩やかに高座の数を減らしていき、吉朝師匠が早逝してしまってから上方落語の熱は冷めていったのです。

伊勢河崎輝輝亭の存在を知って、上方落語熱が少し蘇って来ました。
タカハシ上方落語第2期は桂 三輝さんの高座から始まったのです。演目は覚えてない。ただ、幸せなら手を叩こうと言ってリズムのズレで笑いを取ってたのは覚えています。
桂 三輝さんが伊勢住みます芸人を卒業したら、輝輝亭の中心になっていったのは故  露の雅さん。三重県出身で他の三重県出身の若手噺家を呼んで年に何回か輝輝亭で公演を行うようになり、後々、大阪で幾度も観ることになる噺家も高座に上がっていました。


林家染吉さん、桂 小鯛さん、桂 三河さん、桂 治門さん、桂 二葉さんなどが輝輝亭の高座に上がりました。広さはツギハギ荘の半分くらいかな。20人で満員。
客が自分含め2人だけの時もあったなあ。
露の雅さんは、高座の前に自分が「今日は伊勢まつりがありますよ。」と言ったらマクラで取り上げてくれたり、狼講釈と始末の極意の高座を観た想い出。

そのうち、輝輝亭以外で上方落語の高座を観たくなり、名古屋で笑福亭たまさんの会に行って、衝撃を受けたんです。また、露の新治師匠を観た高座の最初が、「大丸屋騒動」初めて行った動楽亭昼席の中トリでした。名古屋の、たまさんの会で染吉さんの高座に注目するようになり動楽亭の染吉っとんの会に行くようになり、様々なネタを知ることになります。

そして、高津落語研究会との出会い。
その直前で、鶴橋にあった、雀のおやどという小屋で、桂 南天さんの、いきだおれが自分の初南天でした。

高津落語研究会に初めて行った時、当時の最高観客動員だったらしく、桂 ひろばさんのネタおろしの「立ち切れ線香」がトリ。
それから、毎回とは行かないまでも、高津落語研究会に行くようになります。自分の上方落語のベースとしての位置を占めていました。
上方落語若手噺家グランプリ予選や決勝にも観に行くようになり、入門10年前後の噺家の勉強会や独演会に行くようになったのは、伊勢河崎輝輝亭で観た噺家の高座が、そういう人たちが多かったからでしょう。

伊勢河崎輝輝亭は、自分の上方落語第2期の始まり。

その輝輝亭は先月、その歴史に幕を閉じました。雅さんが早逝してから中心になる人がいなくなり、落語会も開かれない状況が続いていたそうです。

伊勢に行こうとしたのは、伊勢河崎輝輝亭だった建物を訪れることでした。
上方落語第2期が輝輝亭だったので、輝輝亭を訪れることで終わり。


輝輝亭だった建物です。ただの民家になってしまっていました。一階で輝輝亭寄席が行われていました。諸行無常です。


心の何処かで、輝輝亭を訪れることで上方落語第2期を終わりにしたいと思っていたのでしょう。
伊勢から大阪に戻り、高津落語研究会最終回に行こうとしたら間に合いませんでした。途中から入るのは絶対にしたくなかった。これも運命だと思って宿に引き返しました。
高津落語研究会から学べたことは多かった。最終回に行けなくともまあいいかなという気分になったのは、輝輝亭を訪れて先に心に区切りをつけていたのかもしれない。
落友と言える人はあまりいませんが、一区切りついたので、ほぼ距離を置きたいと思います。

またいつか上方落語第3期が始まることを祈って。第2期は2015年7月から2018年10月までの3年3ヶ月を一気に駆け抜けました。

ほなさいなら。


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