荷物置場_2020/11/10

誰にも見られない前提で
完結しなくてもいいという前提で
矛盾があってもいいという前提で
そうじゃないと書けない、

10月の最終週あたりから、ずっと調子が悪い。原因を突き止めようとするのも億劫で避けてきた。突き止められはしなくとも、考えるプロセスによって何らかのプラスになるであろうことは理解しているものの、ただ漫然と過ごすことしかできなかった。時折、浮かんでくる言葉はあれど、自身の存在を消したいとさえ思っている自分に、書き残すなどしてわざわざ痕跡を残す気力が起きるはずもなかった。しかし、それらを書き残さないからといって自分の頭からは消えたことにはならない。今日、書く気が起こったのは、それなりに回復したからともいえるのかもしれないが、言葉の置き場所を自分の身体から別の媒体に移したくなったから、と言ったほうが相応しいのではないかと思う。

自分の思いを無かったことにしたくないから書く、という人もいるが、私は、自分の頭からなくすために書きたい。

8月末から10月終わりまで、新たな人脈を築こうとたくさんの人に会ってきた。もともと交友関係が狭く浅かったので、今までにない経験だった。皆、温かく接してくれたおかげで、緊張しながらも、人と会うこと自体は楽しいと思えるようになった。

本当は良いところだけ見せたい。使えない、みっともない、だらしない、めんどくさい人間と思われたくないな。
仕事ができて、きちんとしていて、好感の持てる人物でありたい。

でも実際は、とにかく面倒くさがりで、怠惰で、使ったものはもとに戻せず、きれい好きでもなく、知っている人間が見ていなければ身だしなみもどうでも良くなる。家に誰か来るときは完璧を目指して片付けるけど…。
仕事ではミスをし、物覚えも悪く、不器用で、はきはき喋れず、些細な指摘でも落ち込み、かといって気遣い上手なわけでもなく、理想とはかけ離れている。

でも、仕事や誰かと会っているときは自分なりに空気を読もうと気を張っているので、せめて家ではだらしなくいさせてほしいというのが本音だ。確かに身の回りをきれいにすると気分は上がるけれど、それをモチベーションに行動できるほど強い動機にはなっていなくて、一人暮らしで何も言われないことをいいことに、人間の基本的な欲望のままに、楽な方へ楽な方へと流れて行ってしまう。

自分の嫌な部分から目を背けたくなり、書くのも疲れてきてとりあえず歯磨きしようと洗面所に向かうものの、足に力が入らなくなって床に数分座り込んでしまった。そのあと立ち上がって歯磨きはできたが、数十分スマホを見て現実逃避してしまった。年末調整の書類明日提出なのになんにも準備してない。朝起きて二時間ぐらいでできると信じてる。今日はやりません。
書いているうちに虚無感が…。もうやめたい。シャワーもしてないしもう全部めんどくさい、何もかも忘れて寝たい。

どうなりたいかなんて全く見えてこない、どうでもいい。早く人生終わらしたい、なかったことにしたい、だれが悲しもうが死んだら私には関係ない、地獄でも天国でもなく、早く無にさせてほしい、
生きたくても生きれない人が、もっとつらい人が、って散々言われたり目にしたりしてきたけど、私が生きようが死のうがその人に何ら影響はない。

何が気に入らないのと言われても、もう、変わりたい変わりたいといって、不得意なことに関してもがき続けることも疲れた。明るく、皆の中心で明るく振舞っているような自分は全く想像することが出来ない。形だけできたとして、その状況を楽しめているだろうか。大勢の前ではきはきと話せるようにならないといけないんだろうか。たくさんの人脈があったほうが、自分は幸せだろうか。それは、社交性を身に着けたほうが生きやすくはなるのだろうが、あとどのくらい頑張り続けないといけないのか。
最初はとりあえずやってみよう、という気持ちでできたけれど、他の人を見て自分はまだまだだ、と思うたび、ゴールの無いマラソンのように思える。
他人と比べるのではなく、過去の自分と比べてどのくらい成長したかが大事、そんなことは分かっているが、自分の過去と比べて成長していたとしても自信にならない。もともとが底辺で、やっと人並になれた程度じゃないのか。自分の指標より周りの指標のほうが安心、というか、社会の中で生きていくにあたって、たとえその指標がまちがっていようとも、皆が正しいと言えば正しくなるし、周りにどう思われるか気になっている限りは、他人と比べるのはやめられないだろう。
自分は自分、だけど、空気読めないとか、社会のはみ出し者にはなりたくなくて、かといって、一人じゃ行動できない、とも言われたくない、ネガティブでメンヘラでも、ナルシストでもいけない。否定語にしないとすれば、自分をしっかり持ってるけど空気が読めて気遣いができ、一人でも行動できるけど社会性・協調性もあり、それなりの自己肯定感と謙虚さがあり、感情的になりすぎず、自分のことを客観視できている人間、だろうか。そんな人間ばっかりだったら、もっと世界は平和なんだろうな。
そういう人間は理想で、なかなかいないだろうし、友達にそれを求めているわけでもないのに、その理想像からかけ離れた自分に嫌気がさしてしまうのはどうしてだろう。自分への期待が大きいんだね、って言われるけど、なんだか自分はできると思っている、自意識過剰と言われているようで傷つく。できると思ってるから言ってるんじゃなくて、そんな風にはなれないかもしれないけど、そうなろうと努力するから、どうか私のことを否定しないでほしい。私は、誰かの迷惑になるくらいなら自分の存在なんて消えてもいいと思っているくらいだし、反省しろって言われなくても反省するし、どうか責めないでほしい。分かってるなら直せ、っていう返答がくることを考えると、やはり欠点は克服せねばならないもので、苦手だからと言って避けていいものではないように思えてくる。
この考え方も全く正しいとは思ってなくて、改めたほうが良いとは思っているが、ついその考え方をしてしまう。以下、よく見聞きする内容↓
「厳しいことを言われるのは、多くの場合は、自分のためを思ってのことだし、行いに対して言っているのであって、相手は自分自身の存在を否定しているわけではない。落ち込んでも切り替えを上手にして、指摘してくれたおかげで学ぶチャンスとなったのだから、再発防止策を講じて、次に同じミスを防ぐことを一番に考えよう。」
分かっている。分かっているのだが、些細な指摘・注意であっても、本当に苦手だし、嫌いだ。怒鳴られたら怖くて涙が出るし、大きな声を出されるとそれだけ責められているように感じる。
最近仕事でミスをし、自分から謝ったけどそのことに関しては何も言われず、それはそれでもう見放されたんじゃないかと思って悲しくなった。
もともとあまり怒らない方で、多分私の性格を見抜いて敢えて指摘しなかったのではないかとも思う。でも、怒られないから、新人だからって失敗してもいい、とは思いたくなくて、いつも以上に私自身が重く受け止めたように思う。その後上司の私に対する態度が変わったとかではないんだけど、人に対する好き嫌いや機嫌の良しあしがコミュニケーションに出るタイプ(目に余るほどではなく、元の気さくな性格もあって人間らしさとして受け入れられる範囲内ではある)のように見受けられるので、自分と接してもらうときはいらいらされないよう気を付けようと思っている。
また、私は完全未経験で入ったために、仕方のないことだが先輩たちとの実力差がありすぎて落ち込む。経験者募集だったのに、なぜ雇ってくれたんだろう…。と思う今日この頃。

若干話がそれたが、仕事なら、切り替えに時間をかけながらも再発防止策を必死に考えるけど、仕事以外の場面での指摘(ネガティブ直せとか)だと、改善策を考えるあいだに辛くなってもっと落ち込んでしまうことが多い。過去に言われた似たような指摘も思い出して、あの時から変わる努力すらできていなかったことを思い知らされてまた悲しくなる。

はきはき喋る人や体育会系の人も、そのようになりたいと願う一方で苦手な部類だし、自分が悪くなくても誰かが怒られていたら怖い。機嫌が悪そうな人も怖い。見知らぬ人からの舌打ちや、支払いで手間取ってしまったときレジ打ちの店員さんが机をトントンしているのを見ると申し訳なさでいたたまれない。満員電車で降ります!と言うのも苦手だ。

親に注意されれば毎回のように泣き、テストの点数が悪くて泣き、先生がクラス全体に怒っているときに泣き、応援練習で残されて泣き、合唱の個人練習で泣き、ピアノが上手く弾けなくて泣き、数学が分からなくて泣き、友達に強い言葉を言われて泣いた。泣いている私を見て、泣けば許されると思っているのか、とか、そんなんじゃ社会でやっていけないとか、甘えているとか、とにかく泣かないようにしろ、と何回も言われた。泣いている私を見るときの、クラスメイトの冷たい目と、応援練習の案内に書いてあった泣いても知りません、という先輩の言葉、精神が萎えている、との先生からの叱責。いじめているわけでもないのに私が泣いたことで誤解されてしまいそうだった隣の席の男の子。私を見ているといらいらする、と言ってきた友達、私のことを強くする、といって敢えて厳しく接してきた子、そんな1つ1つのシーンは、今でもはっきり思い出せる。特に、小4ぐらいまでは緘黙で言葉が出なかったので、弁解することもできず、泣いたことを謝りたくてもできなかったので、余計に辛かった。

泣けば許してもらえる、なんて1度も思ったことはないし、泣いて許してもらえたことは一度もない。むしろ、泣くことでさらに許されなくなった。

人前で泣くのは恥ずかしいことだと思っているけれど、我慢しようとすればするほど焦ってしまい、ますます涙が止まらない。上を向く、唇を噛む、別のことを考える、口を開ける、色んなことを試したけれど、できなかった。幼稚園から中学校までの生活は、ほとんど涙との戦いだった。高校生からは、意図的に止めるのほ不可能だと悟り、泣いてしまったらどうごまかすかを必死に考えた。
泣くことを散々否定されてきた結果、泣きたくなるような感情を持つことは、自分の弱さや甘えなんだと思うようになった。体育会系の部活に入れば、鍛えられるのではないかとか考えたけど、高校の部活は色々あり合唱を選んでしまった。
そんな中、高3の春に母親が亡くなった。病気のため余命宣告もあり、予測できていたことだったので、亡くなったときは来るべき時が来た、というかんじだった。祖父母の支えもあり生活に困ることはなかったから、母親がいなくなった後も、なにか生活が大きく変わることはなかった。かといって現実味もあまり感じられず、お通夜のときも葬儀のときも、多少涙は出たものの、号泣することはなく、泣くのを辞めなければという焦りもないせいかすぐに泣き止んでいた。それを見た周りの人は、私が辛くても気丈にふるまっている、と言い、称賛の言葉をくれた。今まで弱い弱いと言われ続けてきたので、やっと強くなれたような気がして、しかも周りからお墨付きをもらい、しかもそれを聞いて祖母も誇りに思ったようだったし、不謹慎ではあるが嬉しかった。また、同級生より一足早く自立できたような気がして、優越感に浸った。
娘としてどうかと思うが、母親がいなくなることで、顔色を気にする大人が減ってちょっと肩の荷が下りたような気もした。
今思えば、泣けば弱い、泣かなければ強い、と言われるの、すこしおかしいと思う。当時その違和感に気づいていなくて良かったのかもしれない。

長くなったが、泣くことに対しては、いい思い出はない。涙腺を切りたいと本当に思った。学生時代に2回だけ、その感受性の強さを大事にして、と言ってもらったことがあるけど、全く受け入れられなかった。一生感動できなくなってもいいから、そんな感受性捨ててしまいたかった。

いまだに涙を我慢するのはできないけれど、社会に出たら大変だと言われながらも、社会に出て3年たっている。感動する心を失ってまでも泣きたくない、とは思わなくなったけれど、繊細と言ってくれても、長所と捉えられないのは相変わらずだ。


泣くのを許してもらうことでさらに心が弱くなり、今よりもっと生きづらかったかもしれないと思うと、泣くことに対し厳しくしてもらって良かったのかもしれないと思う。




かといって、諦めて自分を受け入れることも拒否反応を抱く。自分が弱くあってもいいってあきらめていいのか。弱いものはひっそりと暮らすしかないのか。それで、これからやっていけるんだろうか。


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