どんな自分になりたいか考えたとき_2020/8/11

三連休最終日はひたすら自分の時間を過ごした。ほとんどベッドの上で、スマホで興味のある記事を漁るように読み、自分の内面的なことに関する思考を延々と巡らせた。

予定を入れていたジムもキャンセルし、折角の休日がもったいないと思いながらも、自分にはこういう時間が必要だなと思った。土日はずっと外出していて、楽しかったが一人の時間がなく疲れたということもあった。

どういう自分になりたいのかという問いを、先週投げかけられた。

昨日考え続けていた中で、なんとなくつかみつつあるような感じがした。

自分も他人も大切にできる、余裕のある人になること、かもしれない。

他人を優先し、自分の感情をできるだけ出さないようにし、他人のために自分がやりたいことは我慢する、というのが、今までずっと持ち続けていた価値観というか、考え方だった。そうしていれば、親にも友達にも先生にも嫌われずに済んだから、それが自分の中で正解だったし、もともと、自分のことは後回しにし、他人に尽くすというのは、日本では美徳とされているように思われる。

それなのに、そういった考え方を辞めようと思うのは、自分が生きづらくなり、それによって生まれる余裕の無さによって結局他人に不愉快な思いをさせてしまうと思ったから。

気を遣っているようでも、自分が我慢している、というのが相手に伝わってなんとなく雰囲気を悪くしてしまったり、感情を隠そうとするあまり、相手を突き放してしまったり。

家の外では、他人に迷惑をかけていないかどうか気にして不安になることが多いから、うちでは全てが面倒になり思い切りだらけてしまう。
人から頼まれたらできるのに、自分が快適に過ごすとか、自分の体のために良いことをするとか、自分のスキルを高めるとかは結構どうでもよく思えてしまって、掃除とか洗濯とか自炊とか勉強とか、放棄したくなる。

そんなのは甘えている、自分を奮い立たせなければと思うほど、体が動かなくなる。

自分以外の人のためなら、多少疲れていてもできるはずで、現に他人が家に遊びに来るときは、だらしないと思われたくないので全力で掃除するけれど、一人の時は怠惰であってもとやかく言われないという自由を享受しなければ損とすら思う。

でも、将来誰かと一緒に住んだり、子供に片付けを教えなければならなくなるかもしれないことを考えると、今のだらしない生活に慣れてしまってはいけないと思うから、他人の目線ベースで考えると早く改善させたいのだ。

こんなのただのズボラで、余裕云々よりも日ごろから習慣にしていればできる、と言われればそれまでだ。ただ今回は、自分を快適な環境においてあげたいという意識が生まれず、他人に傷つけられない限り、自責の念に駆られようとどうでも良い、という感情が根底にあるという問題にフォーカスさせてもらいたい。

そもそも、こんなに疲れてしまうほどに家の外で、本当に気遣いができているのかは分からないが、出来ているつもりなのは自分だけだったとしたらなおさら、疲れるのは無意味だ。

私は気配り上手と言われることはあまりないし、むしろぼんやりして見られることが多い気がする。
純粋に他人のためになりたいというよりは、自分が傷つかないように、あわよくば評価されて自分の居場所を確保するために、他人の目を気にしているだけだ。どうすべきか迷って動けなくなっているときに、ぼんやりして見られるのだろう。もちろん、本当に何も考えていない時もあるが、どうしてみんな、そんなに、ぼんやりしないでサクサクと生きているように見せられるのか。

とにかく、本当に心に余裕(豊かさ?)がないと、少なくとも凡人の私には、本当の意味での気遣いはできないような気がする。


また、強くなりたいと思っていたけれど、何のためだったのか。

1番は、泣かないようになり、相手を困らせないこと。

泣いてはいけない、泣いたら恥ずかしい、と言われ続けても我慢できなかった経験や、泣いている自分に対するクラスメイトの冷ややかな視線は、とにかく辛いものだった。
みっともない自分を見られていると思うと、恥ずかしさでさらに涙が出てしまう。

自分を鍛えて、活躍の場を広げたいというよりも、他人の評価といったら大げさだけど、承認されないのではないかとという不安から逃れるためのような…

自責の念が生まれると、とにかく涙が我慢できない。



本当に自分発の動機でやりたいと思うことって何なんだろう。


















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