うまのはなむけ

自分が中学生ぐらいの頃、普通に、平凡に暮らすことも難しい、と祖母が言っていたのを思い出した。
景気も悪く、就職氷河期のニュースが流れていた頃だったから、ごく普通の幸せを掴むのにもかなりの努力が要る、だから頑張りなさい、というメッセージとして当時の私は受け取った。
本当にそういうことが伝えたかったのかもしれないけど、27歳になった今、特に華々しい経歴があるわけでもなく、かと言って、(現状では)大きな挫折を経験したストーリーを語れる訳でもなく、それほどはドラマチックな人生を送れていないごくごく平凡な自分自身を受け入れることは、割と難しいということが何となく分かった。

自分にはこれが足りないから、今できないことを克服するために一緒懸命頑張る、という経験は、自分を助けてくれると思う。自分を受け容れることも確かに大事で、最近よく耳にするけど、20代のうちは欠乏感が糧であっても頑張り続けたいと思ってた。逆に、追い込んで頑張らないと自己受容なんてできない、と思った。頑張っている自分なら好きになれそうだし、色々もがき苦しんだ先に、何かあるはず、という希望もあった。

私はこんなはずではない、もっともっとできるはずだという思いについて、自分自身への期待値が高いんだね、としばしば言われる(自意識過剰なんじゃないの、という皮肉に聞こえることもある)。
ただ、もっと自分を成長させたい、という前向きなエネルギーというよりは、もっとできないと、社会や周りの人に迷惑をかけてしまうからヤバい、という焦燥感が強い。

そういった焦りは、自分をすぐに行動に駆り立ててくれるけど、ずっとモチベーションを持続させてはくれない。
頑張ってる自分は好きだけど、そうでない自分が嫌いな場合は、休むことにも罪悪感を覚える。
頑張りすぎて身体を壊して初めて、自分を大切にすることを知った、という人の話も聞くけど、体に異変が出るまで頑張らないとその域には到達できない(あるいは、到達してはならない)と感じる人もいるかもしれない。
身体の前に、先に心に影響が出た場合、気の持ちようでなんとかなるとか、やりたくないからやらないのは甘えだとか、そういう考えが頭をよぎる。自分の弱さを克服したいと思っている時は特に。
それで、自分はやっぱり弱くてダメだと思って、また走り出すけど、また動けなくなり自己否定に陥ることが予測できて、「やらなければならないからやるのだ」と自分自身に説得するのがだんだんと難しくなる。

長期的には、(この期待が良いのかはともかくとして)できる自分になって、周りからも受け入れられて、その結果、自分を少しだけでも好きになれるかも、と思って動いているはずなのだが、短期的に見たら、動いても自分を嫌いになる道に進んでいることになるので、脳が拒否するのも当然と言えば当然な気もする。

それでも長期的な目線をいつも持って頑張り続けられる人は、このような悩みは乗り越えていくのだろうけど、私はすぐに目の前のことでいっぱいになるので難しい。

だから、焦燥感で頑張るのはそれほど持続性がないことはわかりつつある。
でも、今までやってきたから,またこのやり方に頼ることを諦めきれない自分もいる。

立ち読みした本で、馬を鞭で叩きまくったら全速力で走ってくれるけど遠くまでは行けず、逆に、ご飯やお水をあげて休ませつつ進むと、スピードは遅いが遠くまで行けるという話があった。

確かにその通りだと思った。
ただ、ご飯やお水を与えたり、休ませている間にも、横を全速力で駆け抜けていく馬がいることだろう。ご飯をあげすぎたら太って動けなくなるかも、休ませすぎてサボり癖がつくかも、という不安も付き纏うだろう。
それでも立ち止まる、という選択をするのは勇気がいることだ。
立ち止まっていることが不安で、すぐにでも走り出したい気持ちもありつつ、安心して休んで、全速力じゃなくても、自分のペースを落とさず進んでいくことへの憧れもある。
どっちを選んでもいいんだろうな〜。
どうしようかな。


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