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幸せについて本気出して考えてみた

「生きている意味ってなんだろう」と子供の頃からずっと考えてきた。ミスチルは歌う

「残念ですが、僕が生きていることに意味はない」

いやいやそんなわけはない。何かしらの意味を持って僕たちはこの世に生をうけたはずだ。宗教を信じれるほどピュアじゃないけれどもミスチルのように割り切れるほど僕の心は成熟していなかった。

でも考えれば考えるほど生きていることに意味はないように思えてくる。大金持ちになったり、政治家として歴史に名を残したり、みんなから尊敬されるスポーツ選手になったりしても100年後の未来に僕たちは存在しない。もちろん歴史の教科書に名前を残すことは可能かもしれない。でもだからと言ってなんだというのだろう。天国から自分の業績を振り返ることはできない。人は死んでしまったら無なのだ。

■進化生物学的な「生きる意味」

大学時代に進化生物学に出会って、もうひとつの答えにたどり着いた。生命は原始のスープと呼ばれる古代の海で誕生し「たまたま」環境に適応(生存)し、自らを複製する(繁殖)能力を持った個体だけが生き残ってきた。

だとすれば「生存」と「繁殖」が僕たちの生きている意味にはならないだろうか。究極的に人生に意味はないという考えは今も変わらない。でもそれではあまりにも悲しすぎるので、その一歩手前に目標を持つことにした。

「生存」と「繁殖」をそれぞれ言い換えてみると「衣食住の充実」と「異性の獲得」、あるいは「金」と「女」という身も蓋もない結論に達する。

やはり多くの幸せはこの二つと関係があるように思う。ただ違和感もある。おそらくそれは幸福の「快楽」という側面にしかスポットライトが当たっていないからだ。

「快楽」は瞬間的な幸福感のことでラーメンを食べて美味しいとか異性とイチャイチャして楽しいとかある意味、非生産的な幸福だ。そして究極的にはドラッグで脳内を麻薬漬けにしてしまえば得られるものでもある。

■幸福 = 快楽 × やりがい

それでは「快楽」以外の幸福とは一体なんなのか。「幸福な選択、不幸な選択」の著者ポール・ドーランによれば、それは「やりがい」であるとされる。

「やりがい」が「快楽」と決定的に違うのは、生産的な活動により生じる幸福だということだ。ゲーム実況を行っているYoutuberを思い浮かべれば分かりやすい。ゲームに熱中するだけなら「快楽」だが、それをYoutubeにアップし視聴者から人気を集める行為は「やりがい」となる。

おそらくこの「やりがい」に対して感じる喜びも元々は「快楽」を得るために必要な遺伝子プログラムだったのだろう。なぜならば「やりがい」の先には「自身の成長」があり、「自身の成長」は「衣食住の確保」や「異性の獲得」に有利となるからだ。そして長い年月を経て、僕たちの遺伝子は「やりがい」そのものに対しても幸福感を得られるようにプログラミングされた。それが生存戦略上で極めて有効だったからだ。

■幸福とは相対的なもの

もう一つ幸福を読み解く上でのキーワードとして「相対的」ということを提示したい。下の記事は、少し前に話題になったSNSの利用率と幸福度の関係を解き明かしたものだが、幸福が相対的なものであるということを端的に示している。

「SNS上で友人らの投稿を目にすることで、自分以外の人たちは幸せで充実した人生を送っているという歪んだ認識と、うらやむ気持ちが生じる」と指摘している。SNS上で傍観者でいると、自分は時間を無駄にしていると感じるようになる。その結果、うつ病になる。

参考リンク:フェイスブックは「人生の幸福度を下げる」 米研究結果 | Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン)

この記事ではネットを介して自分より幸せそうな人たち(それが例えフィクションだとしても)を目にすることで、劣等感が喚起され幸福度が下がるということが指摘されている。幸せな生活を送りたいのであればネット、少なくともSNSは遠ざけた方がいい。

また国民総幸福量(GNP)という概念を提唱したブータンの前国王であるジグミ・シンゲ・ワンチュク国王もインターネットの普及に懸念を抱いていたことを思い出す。おそらくワンチュク国王もネットと幸福度の相関関係を見抜いていた一人だったのだろう。

※これは昔僕がテレビでチラッと見ただけなのでソースはなし。

そもそも「やりがい」の先には自身の成長と競争における勝利がある。だとすれば優越感や劣等感が幸福度と密接に結びついていたとしても何ら不思議ではないはずだ。

■結局、僕たちはどうすれば幸せになれるのか?

さて幸福を読み解く上で「快楽」「やりがい」そして「相対的」というポイントを紹介してきた。これを踏まえた上で僕たちが目指すべき幸福のあり方を考えてみたいと思う。

まず「相対的」という言葉から考えてみたい。例えば地方の田舎で暮らすマイルドヤンキーが幸せなのは小さな世界で生活が完結しているためだ。故に他者と自分を必要以上に比べず、劣等感を感じる機会も少ない。贅沢ではないけれどささやかな幸せと、仲間内で得られる矜持。そこにマイルドヤンキー的な幸福の本質がある。彼らは広い世界を知らないからこそ楽園で暮らすことを許されたアダムとイブであり、大海を知らないがために井の中で幸せを享受する蛙なのだ。

さてこんな堅苦しい記事をここまで読んでくれた人たちは間違っても狭い世界に生きるマイルドヤンキーではないだろう。いわゆる勝ち組か、もしくは広い世界を知ってしまったがために素朴な幸せでは満足できなくなった欲求不満な人たちだ。

であるならば、井の中の蛙になりそこねた人たちが幸せになるために残された道は何か。僕は二つのルートが存在すると思っている。ひとつは伝統的な価値観に則り、努力からやりがいへと進む道、そしてもう一つが快楽からやりがいへと進む道だ。

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Youtuberやスポーツ選手、トップエンジニアなど現代的な生き方としてよくおすすめされるのは快楽から進む道かもしれないが、もちろん意志力の強い人は努力から進む道を選んでもいいだろう。サラリーマンとして頑張る、資格を取得することなんかはこの道になるかもしれない。

快楽ルートから進む時に大事なことは、その道を突き詰めることだ。ホリエモンはこのことを「没頭する力」と呼んでいるがまさにその通りだと思う。反対に没頭できなければ周囲の雑音から自らの境遇を相対化し、幸福度は減少する。

幸いインターネットのおかげで僕たちは未だかつてないほど「快楽」をお金に変えやすい時代に生きている。先述したゲームの実況者はもちろん、サッカーが好きならサッカー教室を開いてもいいし、漫画や本が好きなら書評を書いてもいい。いっそのこと漫画家や小説家を目指してもいいかもしれない。今は出版社を通さずとも、作品をネットにアップするだけでマネタイズが可能な時代なのだ。もちろんビジネス自体に快楽を感じるなら、それは素晴らしい才能なので大事にして欲しい。

重要なのは「快楽」を非生産的な活動として終わらせずに生産的な「やりがい」にまで昇華させるということ、そして決して自分を相対化し過ぎないことだ。程良い劣等感は適度なモチベーションを生み出すが、過ぎると快楽をマネタイズするにあたっての挫折要因となる。

インターネットは僕たちに劣等感を与え不幸をもたらしたかもしれない。しかしその代償に僕たちは「快楽」を「やりがい」に昇華させる武器を手に入れた。しかもこの「快楽」と「やりがい」は幸福の定義そのものでもある。そう考えると僕たちは本当に幸せな時代を生きている、そうは思わないだろうか。

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