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【幼稚】概念と実現可能性について

よう‐ち〔エウ‐〕【幼稚】
[名・形動]
1 年齢がおさないこと。子供であること。
2 考え方・やり方などが未発達なこと。子供っぽいこと。また、そのさま。ーWeblio 辞書より

1.【幼稚】について

ココでは【幼稚】と言う概念について思う所を記していきたい。

例題として大ヒット漫画である『one piece』を読んで(又は観て)『海賊になってみたい』と考える事は果たして【幼稚】であるのか?それは【幼稚】と言って良いものなのか?といった疑問を考えてみる。

個人的な考えで言えば『幼稚である』と言って差し支えないと感じるが現に大人であっても『海賊になってみたい』と”考える事/思う事”はあるであろう。

『one piece』で描かれる【海賊稼業】は実に自由で楽しく困難があっても仲間達と乗り越えていく様は《憧れる》モノではある。

その《憧れ》は老若男女を横断しているので大ヒット漫画たり得るのだと思われソノ《憧れ》を持って『海賊になってみたい』を【幼稚】とする事はソレこそが幼稚な判断と見做されるに違いない。

しかしながら、幼い子供が【幼稚】である事と大人が【幼稚】である事には状態として大きな差があると僕個人は考え、その差とは【実現可能性(或いは不可能性)に対する自覚】の有無ではないだろうか?

「大人と子供の違いとして【実現可能性】を推論できる能力には差がある」と言うと『子供でも実現不可能だと考える子もいる』や『大人でも実現可能性なんか考えない大人もいる』という反論が予想されるが【一般論】(これにも反発する人もいるだろう)として体験/学習機会の少ないであろう子供全般と体験/学習を経た大人全般の比較である。(一々コレを記さねばならない昨今の風潮は面倒である)

”『one piece』を読んで『海賊になってみたい』と考える事は【幼稚】”と言った場合に「怒られ」が発生するプロセスとしては
①老若男女を横断している大ヒット漫画という事実
②ソノ内の少なくない人が『海賊になってみたい』と思うはずという推測
③その場合【実現可能性】等は考えていないという実感に基づく推測

等が考えられる。

①の事実は確定として②の推測も事実に即しているだろうと僕は考える。
そのうえで、③の”実感に基づく推測”に疑問を持つのである。

確かに『海賊になってみたい』と”思う場面”において一々【実現可能性】等を前提にする人はホボいないだろう。

『海賊になってみたい』と”思う”大抵の人は無邪気に純朴に『海賊になってみたい』と”思う”のだ。
しかしながら《大抵の大人》はその”思う”の後に『なれない事は判ってるけどね』という【思考上に意識されない前提】を持ってはいないだろうか?

アンコンシャス・バイアスという言葉は”無意識の偏見や思い込みを意味する”という〔ネガティブ〕な影響を指すがアンコンシャスな《一般常識》(良い/普通とされ易い)も人々の推論に作用するのは当然ではないだろうか?

この仮説が正しいとした場合。
”『one piece』を読んで『海賊になってみたい』と考える事は【幼稚】”と言われた場合に不快感を感じる人達の多くは、

『なれない事は判ってる』のに『海賊になってみたい』と考える事は【幼稚】だと言われた認識なのではないかと推論する。

コレは全くの誤解である。
なぜならば『なれない事は判ってる』のは既に【幼稚】ではないから。

①『なれない事は判ってる』ので、なる事はない。
②『なれない事は判ってる』が、あえて目指す。
双方とも【実現可能性】をアンコンシャスに又は自覚的に判断出来ている。
では、
③『海賊になれない事が判ってない』場合はどうだろう?

不快感を感じる人達の多くはアンコンシャスに『そんな奴は居ないし、居たとしてもごく少数だ』と認識してるのではないだろうか?

幼い子供達が『海賊になれない事が判ってない』事は理解しやすいが大人とされる者が『海賊になれない事が判ってない』のは理解がしづらく認識外(推論上にあがらない)なのではないだろうか。

ヒトは理解しやすい事をベース(基準)に思考をする。
故に”③『海賊になれない事が判ってない』大人”に対して【幼稚】と形容された文言を【『one piece』を読んで『海賊になってみたい』と考える人】に対しての言葉と錯誤してしまうのではないだろうか?
『海賊になれない事が判ってない大人』って【幼稚】と言って良いのでは?

2.【実現可能性】について。

文字通り『ソノ事が実現可能か?障害はどれほどあるかを推測する』なのだが痴漢行為を例に考えると。
①女性に触りたいという欲望
②欲望を達しやすい場所/時間/手口等の考察
③障害等の考察/逃亡の考察
等々【実現可能性】について実に理性的(推論能力を発揮)に犯行に及ぶとするならば実に【大人的】ではないだろうか。

しかしながら①(触りたい欲望)を多くの男性が持っているとしても大抵はアンコンシャスな《一般常識》が働き『(実際は)痴漢はしないけどね』とブレーキが働く。

では、アンコンシャスな《一般常識》が未発達な場合はどうだろうか?
アンコンシャスな《一般常識》が未発達だと【常識的では無い自己中心的推論】で考察するのではないか?
所謂【認知の歪み】である。

「アンコンシャスな《一般常識》が未発達」な事を”偏見や思い込みが強い”とするなら「アンコンシャス・バイアス」と同じなのだが「アンコンシャスな《一般常識》が発達」してると遵法精神の向上や社会ルールに従いやすくなるという点で方向が違うとは言えそうだ。

「アンコンシャス・バイアス」という”社会的”にネガティブな概念。
「アンコンシャスな《一般常識》」という”社会的”にポジティブな概念。
両方の概念を用いる事が「犯罪を犯す個体と犯さない個体」を考える時には必要だと思います。

補足:”社会的”とされるモノが常に【正当】だとは限らない事に留意。

個人的には「アンコンシャス・バイアス」も「アンコンシャスな《一般常識》」も【思考を固定化するモノ】ではあると前提を持ってます。

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