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円空について考えながら、びんずるさんを待っている。

円空工房Z」の三秀さんにびんずるさんを注文をしてから円空についての本を読もうとKindleで読み始めたものの、実は今もまだ読了できていない。
しかし、その頃文庫化された「見仏記 道草篇」を読んでいたら円空についての素晴らしい言葉でいっぱいだった。

「まさに円空。これ、滞在期間長いね」みうらさんが言った。確かにいわゆる木っ端仏でなく、ある程度腰をすえて作ったものだった。仏像の作りがそのまま円空のいた時間をあらわすというのは慧眼だ。いずれ円空という時間単位になるかもしれない。

いとう せいこう,みうら じゅん. 見仏記 道草篇

円空は修行や説法をしながらお寺を点々としていた遊行僧だったので、そのお寺に滞在していた時間が円空の彫った仏をみたらわかるって話。

みうらさんはそこでずばりと言った。「だから運慶のライバルは円空なんですよ」

いとう せいこう,みうら じゅん. 見仏記 道草篇

いきすぎた、でき過ぎた慶派の後、どんなものを作って行ったらいいか?それの答えが円空だとみうらじゅんは言っている。そこに神仏習合の流れが円空にじわじわ入ってきたと。

読み終えていない素晴らしい円空本にも同じような言葉があった。

円空はこのような荒れ寺や無住の庵を転々としながら武蔵野の農民にまじわり、かれらのもとめる民俗信仰の仏像を彫ったのである。したがって円空仏の心を知るためには農民の心や生活を知らなければならない。これによせられた民俗信仰を知らなければならない。それを全く度外視して貴族的な芸術の尺度や感覚や理論でみることは円空仏の曲解にほかならないとおもう。

『円空と木喰 (角川ソフィア文庫)』(五来 重 著)

こんな言葉を噛み締めながらびんずるさんを待っていた。

top写真は飛鳥の橘寺のびんずるさん

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