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奈良 五條への旅〜② 幻の五新鉄道と維新先駆けの天誅組
賀名生よりバスで戻って昼前に今日のお宿のリバーサイドホテル。荷物を預け、ホテルの目の前にある町中華ランチをお腹いっぱい食べて、近くに印象的な面持ちで立っている幻の「五新鉄道」を実感しに行く。
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こちらは、明治の末から建設の機運が高まり、五條から和歌山の新宮までを結ぶ予定だった「五新鉄道」の幻の跡。
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この鉄道が完成していたら奈良の南部は今よりも行きやすい町となってたのだろう。しかしもし出来上がっていたら、奈良の奥地の神秘性や古代より逃げる人たちが隠れる場所であった歴史を感じる事は難しかっただろうと思う。少しバスに乗って訪れた賀名生ですら、違う空気を感じられたのだから。
そして次に訪れたのが天誅組に燃やされた旧五條代官所。こちらも中は天誅組についての歴史が展示されていた。
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やはり、ここまで来たら何度も書いている明治維新の先駆けと言われている「天誅組」について説明しないといけないだろう。江戸時代末期、尊王派が徐々に力を増していく中、明治天皇の一代前の天皇である孝明天皇が大和へ行幸するのを先回りして五條へと向かった尊王派の天誅組、そこで徳川幕府の代官所である五條代官所を襲撃して代官らを暗殺し火をつけ、幕府天領を支配下に置いて新しい時代を宣言したものの、、、、大和行幸は中止となり、尊王派の機運は下火になり、幕府、各藩からの追討を受け、奈良県各地を転戦し、東吉野で終焉の日を迎えた彼ら。こう書いてみても、その時代の空気感をわからない私にとってはその当時の時流を感じるのはものすごく難しい。
こちらは次の日に訪れた、代官所の近く、天誅組の本陣があった桜井寺。
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天誅組がこの桜井寺の次に逃げて行ったのが、午前中訪れた賀名生の堀家住宅とのこと。私たちがワインを飲んでいたところだ。
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南朝の後醍醐天皇が滞在され、遺品もあると知った天誅組の総裁の吉村寅太郎は、ここが戦火に巻き込まれないように「皇居」と書いた扁額を冠木門に掲げたらしい。
司馬遼太郎の「街道をゆく 十津川街道」を帰って読みかえしてみたら、天誅組について考えながら司馬遼太郎も五條から十津川まで旅していた。
途中まで歩いたが、なんとなくこの峠における天誅組の動揺やら、中山忠光という愚人をかついでいることによる統帥のみだれ、十津川兵の離反、その後の天誅組の命運のことなどを思うと、気が重くなってきた。浪士たちは気分のいい楽天家が多かった。それだけにいっそう悽惨な思いがする。
愚人とバッサリ司馬遼に書かれた主将として祭り上げられていた中山忠光についても興味が湧く。
忠光は筋骨たくましい美青年で、天誅組の主将として引眉・お歯黒の化粧をし、太刀を付けて馬上にある都下りの役者のような姿に、大和国の人々は熱狂したという。白石正一郎の日記によれば、忠光は気に入らない事があれば絶食し、腹を立てれば家を飛び出す激情家で、彼の激論を周辺がしばしば持て余した事が記されている。
ウィキに書かれていることが本当であれば、どんな風貌かも気になるところ。
それは、中山忠光のお墓のある下関の道の駅のブログが教えてくれています。
こちらの天誅組出立の図も上を踏まえてみてみると面白いです↑
たくさんの引用になってしまいましたが、私なりに天誅組について感じたことは、早過ぎたちょっとお調子者の人たち。本物の流行になる前に、早すぎてしまう人っているじゃないですか?もう、終わったよ、、、と思ってからしばらくしたら流行ってことないですか?彼らも早過ぎの勇み足だったのでは??でも、こういう人たちがいないと流行は発信されないですよね。彼らの事件があったからこその明治維新なのか。。。?
明治維新が実現したのは、天誅組の滅亡から五年後だったとのことです。
続く
23.5.14〜奈良 五條への旅②
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