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ポジティブな文章を読んでネガティブになる

自分のことや自分の生活を肯定している動画や文章って大量にありますよね。「僕はこんなに貯金あります」みたいな。自分でnoteを書きはじめてから気づいたのですが、こういう文章って根がネガティブだから書くのかなと。というか、すくなくとも私はそうですね。

あるいは都会暮らしをしている人だったら「東京は最高です」と書くだろうし、地方出身の人だったら「固定費がこんなに安いのよ」と書くだろうし、田舎に移住した人であれば「いまとなってはコンクリートジャングルに住んでいたことが信じられないくらいここは快適だ」と書くかもしれません。

最近こういう感じの文章をいくつか読む機会があって、昔はこういった「自分はこんなふうに幸せになれました」的なポジティブな文章に背中を押してもらっていたな―とエモい気持ちになったのですが、自分でも文章を書くようになってからは「むしろ書き手こそが自分に自信がないからポジティブなことを書こうとするのだろう」と感じるようになりました。

いつからか、こういった自己啓発本のような前向きな文章がとてつもなく苦手になってしまい、なのでこの手のタイプの人はあまりフォローしません。逆に言えば、文章のトーンがネガティブな人のほうがかえってポジティブというか、自分のことを書くときにネガティブな雰囲気を持たせられるのは案外自分に自信があるからなんですよね。

いくら自己肯定感が低いと言っても、心の底から100%自己否定できる人なんてほとんどいないと思うし、とすれば自己否定的でネガティブな文章を排出できる人は土台のところではポジティブだから、というのが私の感覚上の説です。だからホリエモンとかあの辺の界隈の人たちって根はめちゃくちゃネガティブだと思っているのですが、どうなんでしょう。

だからこそネガティブな文章を読んで、そこはかとなく感じる自己肯定感の高さみたいな、おそらく現実世界ではわりと折り合いをつけてやっているんだろうなみたいな、その人の土台の強靭さをわけてもらっている感じがしてエモいです。「きみも権利収入で幸せを掴み取ろうぜ!」的な表面的なポジティブさに触れつづけていると知らず知らずのうちにかえって自分の土台を崩されていくような気もしています。

悲観主義の哲学者に会うと前向きで楽観的な人が多いという誰かの古い本を読んだことがあります。ブリーチの「あまり強い言葉を使うなよ。弱く見えるぞ」じゃないですが、あまりにもポジティブであることを主張されるとむしろ水面下に流れているネガティブさを受け取ってしまうという、そんなお話しでした。

1Q84、1巻が読み終わりそうです。