感謝はむずかしい

日本人として生まれたならば日本国に感謝することはむずかしい。というか不可能だ。なぜなら生まれたときからその状態が当たり前だから。

感謝とは「有り難い(ありがたい)」ということで、めったにないという意味らしい。おそらくゴルゴ松本が言っていた。

つまり生まれたときから当たり前のように存在しているものに対しては、「有り難い」という感覚を持てるはずがない。

私はあまりモテてきた人生ではなかった。もちろんこれまで彼女のひとりもできなかったという意味ではないが、特定のだれかから深く体感できるほどの愛を感じたことはなかった。

それがつい半年ほどまえから私のことを好いてくれる人が現れて、毎日のように会っているし毎日のように通話をしている。これほどだれかからの愛を感じたことはいままでに一度もない。

遠藤ちゃん

つまり渇けば渇くほどに水の有り難みを感じるというカラクリで、幸せになりたかったらいかにして渇くかという意識を持たなければいけない。

しかしこの「渇き」というのはとてつもなく苦しい状態で、渇いているあいだは自分なんて生きている価値がないんじゃないかと思うほどに不幸のどん底をさまようことになる。

だから仏教の「生の本質は苦しみである(四苦八苦)」という考え方はあまりにも本質を捉えている。デフォルトの状態が不幸であり、幸せに転換したとしてもそれが当たり前の状態になってしまう。

ここで「感謝」「有り難い」というワードがキーポイントになるわけだが、これを忘れている人があまりにも多すぎる。

以前、父が「あー俺の人生ってつまらんなー」と愚痴をこぼしていたことがあって、その発言にイラッとしたので「でもお父さんにはかわいい奥さん(私の母)と立派な息子(私の弟)がいるんだからどこもつまらなくないじゃんか」と声を大にして言った。

すると父は「うん、そうだな、ごめん、たしかにお前の言うとおりだ」と珍しくガチのトーンで謝ったかと思えばそれ以降ネガティブな発言をいっさいしなくなった。すくなくとも私の前では。

あんなに愛し合っていた夫婦でさえ3組に1組は離婚する。そこには「相手に感謝する」という意識が欠けてなくなってしまったのではないかと独身フリーターの私としては感じてしまう。

もちろん相容れない価値観の違いなどはあるだろう。だけど相手への感謝の心を忘れていなければお互いに納得できるかたちでの着地点を見つけられていたかもしれない。

「大切なものは失ってはじめて気づく」という言葉は言い得て妙だが、失う前に気づけたのだとしたらどんなに幸せなことだろうか。

と、最初期のころには考えられないようなこんな自己啓発みたいなことを投稿している時点で私自身はおおむね幸せなようだが、読んでいる人たちとしては不幸寄りの文章のほうがおもしろいよね。

1Q84、1巻が読み終わりそうです。