死にたいけど死ねないこの気持ち

私はたぶん20代前半までは社会的な人間だったと思う。素晴らしいゲームを作って世間の人々を驚かせたいと思っていたし、同時に運営していたブログを当てて一役有名になりたいとも思っていた。

それがいつのまにかそうした感情はどこかに消えてしまった。それは私自身そうした大層な人間ではないということを自覚したからだろうか。

生まれてきた意味を考えてしまう。でもそんなものはない。わかっている。私のことなんてどうせ誰も知らない。それもわかっている。あるいは私を知っている人々もいつかは消えていなくなってしまうことも。

豊臣秀吉は後世まで語り継がれているのに、どうして当時を生きた農民のことは誰も知らないのだろう。理不尽ではないか。いや、理不尽ではないのか。わからない。私は豊臣秀吉になりたいのか。豊臣秀吉だって地球が爆発してしまえば霧散してしまうというのに。

そんなことを考えたって仕方がない。結局人間だって動物だし、そもそも存在を定義できていない。存在とはなにか。ハイデガーさん、結局存在ってなんなんですか。あなたの本を読みましたけど結局言いたいことは「存在? はっはっは、わかんねーよ」と言っているだけに聞こえますよ。

シオランは言った。生誕の災厄だと。「私が唯一落ち着けるのは墓地と墓地のあいだに寝そべって青空を見ることだ」と。あなたはもう死んでしまいましたけど、天国では笑って過ごしていますか?

生きている意味を知りたいのではない。生きている意味なんてないということを自覚してしまったから苦しいのだ。死ぬことが唯一の生きる意味なのだ。私たちは紛れもなく宇宙の一部なのだから。

宇宙が太陽を作ったし、宇宙が地球を作ったし、宇宙が生命を作った。では宇宙とは何か。存在とは何か。それではハイデガーさんお答えくたさい。「はっはっは、わかんねーよ」。ふざけんなよおい。

宇宙や存在のことを考えたってそれは「神のみぞ知る」なのだから考えるだけ無駄である。つまり人間に飼われている金魚は水槽のことは考えてはいけないということ。どうして餌が投入されるのか。あらゆることは思考停止でただただ日々を健気に生きていけばいい。それが人間に飼われている金魚の宿命なのさ。

われわれは宇宙に飼われている一匹の猿。宇宙のことは考えてはいけない。存在のことは考えてはいけない。

偉大なゲームクリエイターになることだけを考えていればいい。意味はない。水槽の中で何をしたって意味はない。ただすこし心地がいいか、早く死にたいか、その程度の状態の差はあれど。

でも死ねないのだ。酸素と餌は絶え間なく投下され続けるのだから。それは幸福なことなのだろうか。それとも絶望なのだろうか。そんなことを考える暇もない瞬間だけは幸福だろうが。

1Q84、1巻が読み終わりそうです。