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0と1の壁

 センシティブな話しかもしれませんが、私がはじめて0と1の壁を感じたのは小学生のころの乙武さんの授業でした。
 もちろん私も身体的にコンプレックスを持っていないことはないですが、体重がどうとか身長がどうとか顔面がどうとか、そういったレベルで悩んでいたときにそもそも手足がない人間がいるのかという現実に圧倒されました。

 とはいえ乙武さんが五体不満足だからといって自分の悩みが本質的に解消されるわけではありません。
 あくまでここで言いたいことは「0と1の壁」と「1と2の壁」は同じ次元の話しではなく、1の側にいる時点で意識的にでも無意識的にでも生きにくさのレベルがグッと下がっているということです。

「1であれば可とする」という考え方を持ち合わせていない人は相当生きづらいだろうなと思います。
 つまりは慶応まで行ったのに東大生にコンプレックスを抱いているような、あるいは会社員としてそれなりに充実した毎日を過ごしているのに平均年収に届いていない自分を卑下しているような、そういった趣を感じます。

 足るを知る者は富むという話しではなく、1というのはあくまでも「可」であって「良」ではありません。
 この話しとは別に、どの地点を「良」とするかは3や4といった自己設定に応じて各々ががんばっていけばいいわけです。


 個人的に思うことがあって、友だちが少ない人が「友だちなんていなくていい」という発言をすることがありますが、友だちが”少ない”ことと友だちが”いない”ことはぜんぜん意味が違います。

 同じように、恋人がいたことのある人が「恋人なんていなくていい」と発言しているのも違和感だし、恋人経験が”少ない”ことと恋人経験が”ない”ことはまったく別問題です。

 私はわりと0と1の壁を意識してきたところがあって、ちょっとでも興味のあることには手を出してきました。
 手を出した瞬間に0から1に変わるし、イヤになったらすぐに引き返すということを意識しているのでわりと勢いだけで挑戦できるという感触があります。

 私の好きな映画で『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』という作品がありますが、あの映画は余命宣告を受けた男が死ぬ前に一度でいいから海が見てみたいと、病院を抜け出して海岸まで冒険するというロードムービーです。
 私はまだ死ぬ予定はありませんが、残りの寿命までできるかぎりたくさんの海を見ることができたらいいなと思います。

1Q84、1巻が読み終わりそうです。