人間にとって一番気持ちいいことは他人を認めさせて支配を拡大させること?

認めてほしいと思っている相手は人によって違うと思うが、基本的には認めてほしいという思いが人間のほとんどすべての行動を決定している気がする。

彼自身は否定するかもしれないが、村上春樹だって世の中に認めてほしいという思いから小説を書いているのだろうし(すくなくとも執筆理由の上位には来ているはずだ)、もちろん私もそうだし、バイクをブンブン鳴らしているお兄ちゃんもそうだし、おせっかいおばさんもそうだ。

しかしほんとうにそれが気持ちいいことの「一番」なのかと考えてみたいわけだが、私自身はそれが一番に来ている。最近エアーポッツプロを買ったのだが、そういった高価なものを買うことが気持ちいいことの一番には来ない。

瞬間的には「便利だなー」「すごいなー」とは思うけど、それ以降はエアーポッツプロを持っている状態が「ふつう」になる。その状態がふつうなのだからいくらエアーポッツプロを使ったところで毎回毎回「気持ちいいー」とはならない。

それでは「認められること」はどうか。結局、認めるのはあくまでも他人なので常に認められつづけるかどうかはこちら側にはどうしようもできない。だから「認めさせた」あるいは「屈服させた」というのは自分自身にはどうしようもできないことを操縦してやったぜといった「自由の拡大」「支配範囲の拡大」を感じているのではないか。

エアーポッツプロを買うことは「自由の拡大」「支配範囲の拡大」でいうとだいぶ低い。数時間、あるいは数十時間も働けば絶対に手に入れられるとわかっているからだ。多くの人にとってこれほどイージーなことはない。

一方で「他人を認めさせること」については相当むずかしい。たとえば、私は父に一度だけこのように言われたことがある。「なんでこんなこともわからないんだ。お前らしくないぞ」と。

つまりある出来事を完遂したことによって一時的に認められたりはするのだが、またべつの出来事が起きたときにもしそれが仮にうまくできなかった場合、「幻滅」される可能性がある。

なので、ある特定の人から(世間でもいいが)認められつづけるということについては絶対的な保証がない。エアーポッツプロみたいに何時間か働けば絶対に買えるという代物ではない。他人というのは簡単にだれかのことを幻滅できる生き物だ。まさにギャンブルである。当たったり外れたりが行ったり来たり。認められたり幻滅されたりが行ったり来たり。

認められるというのは氷だ。一時的に認められたところでその氷はあっという間に溶けて水になる。水になったらまた氷に戻さなければいけない。だけど自分で冷凍庫を開けることはできない。他人に開けさせるしかない。

他人に冷凍庫を開けさせる。この最強の課題をクリアしたときにはそれはそれは全身を突き抜けるほどの快感に襲われる。人類はそれの虜になっているのだ。戦争もマネーも搾取もパワハラもなくならないのがその証だ。

1Q84、1巻が読み終わりそうです。